アラン・レネ『去年マリエンバートで』をめぐって
監督は『ヒロシマモナムール』のアラン・レネ。 キャメラはその時と同じ、サシャ・ヴェルニ。 脚本はヌーヴォーロマンの旗手アラン・ロブ=グリエ。 監督と脚本家、この二人のアランは いみじくもともに38にして出会い、 アンチロマン、アンチシネマの共犯関係を結ぶことになる。 映画史に一石を投じた作品として 色褪せぬ記憶のなかにとどまり続けるだろう。 またしても、永遠に眼差しに安らぎなど訪れぬ迷宮のなかで ただならぬひとときの夢を観るのだった。
監督は『ヒロシマモナムール』のアラン・レネ。 キャメラはその時と同じ、サシャ・ヴェルニ。 脚本はヌーヴォーロマンの旗手アラン・ロブ=グリエ。 監督と脚本家、この二人のアランは いみじくもともに38にして出会い、 アンチロマン、アンチシネマの共犯関係を結ぶことになる。 映画史に一石を投じた作品として 色褪せぬ記憶のなかにとどまり続けるだろう。 またしても、永遠に眼差しに安らぎなど訪れぬ迷宮のなかで ただならぬひとときの夢を観るのだった。
雨の日におすすめする映画、というわけではないけれど、 タイトルにもあるように、雨が印象的なルネ・クレマン『雨の訪問者』。 ルネ・クレマンといえば、『禁じられた遊び』しか知らない人や わかりやすいストーリーに見慣れている人なら ちょっとそのタッチが新鮮に映るかもしれない。 ただ映画としての出来はそれほどでもないかな。 いわゆるいいなと思う派とつまらない派が半々になるタイプだけど これぞフランス的で、ハリウッド映画にはない 細部にまでちょっとこだわりのある画風を作る映画作家 そこはルネ・クレマンの真骨頂だ。
その意味ではリヴェットによる『北の橋』は、かつて74年に撮られた傑作 『セリーヌとジュリーは舟でゆく』からの続編、 とはいわないまでも、ファンタジー性やその虚構空間においては 内容は違えど、どこか地続きの映画構造のように映るだろう。 いずれにせよ、物語に容易に収斂されえない展開ながら 本能的な自由を求める奔放さでもって 観るモノを魅了してゆくリヴェットらしい即興性に満ちた 遊び心満載の、謎解き冒険譚であることは間違いない。
クライマックスは、というと「情事」の矛先、 つまりは「危険なプロット」の方向性が大いにズラされてゆく。 今度は教師ジェルマンの妻ジャンヌへと向かう。 このあたりの「プロット」展開は見事だな。 こうなると今度はジェルマンが嫉妬にかられるわけだ。 あげくには学校はテスト漏洩問題が明るみに出て職はクビになるし 妻には愛想を尽かされる羽目になってしまうというってな話だが、 原題『Dans la maison』から邦題の『危険なプロット』、 内容から見ればこの邦題の方が的確に要点を突いている。
夜更けに、眠れなくなるやもしれぬ熱いコーヒーを口にしながら ふとマイルス・デイヴィスのアルバムを聴いていると 夜がいつになく身近なものに感じられる。 いつもなら、この時間『Kind of Blue』あたりをお供に 静かに悦に入っているところだが、 今日はいつもと違う刺激とばかり、別のアルバムに手を伸ばしてみる。 ジャンヌ・モローがジャケットを飾るのは ルイ・マルによる『死刑台のエレベーター』のサントラである。
このクルーゾー版に感銘を受けてリメイクされたのが フリードキンによる1978年度リメイク版だが、 今回まず、元祖『恐怖の報酬』のほうについて言及したのは 幻の傑作、フリードキンの最高傑作と誉れ高いリメイク版に触れる前に その踏み台と言ってしまうにはあまりにもったいなく 元をきちんと見直して正しい認識をもっておきたかったまでである。 ニトログリセリンの運搬に命をかける男たちの悲哀は いずれにもストーリー上共通の柱ではあるが、 やはり、恐怖へのアプローチが時代を越え、 国境を越えればこうも違うものかと 映画ならではの醍醐味を考え直させられるに至るのである。
こうして出来上がった魅力溢れる人間たちの縮図『天井桟敷の人々』。 そもそも“天井桟敷”というのは 劇場の最後方・最上階にある天井に近い観客席のことをいい そこは当然料金も安く、最下層の民衆にとっての指定席で、 この映画のフュナンビュール座では「天国」と呼ばれ、 ワーワーガヤガヤと子供のように賑やかだったことから 「Les Enfant Du Paradis(天国の子供達)」と呼ばれるようになったんだとか。 いかにも演劇の盛んな国フランスならではの 文化的背景が見え隠れするエピソードである。
セドリック・クラピッシュ『猫が行方不明』は じんわり、ほっこりする映画である。 原題の「Chacun cherche son chat」をそのまま訳せば 「だれもが自分の猫を探してる」ってなことになるけど その本当の意味が最後まで行くとわかってくる。
まあ、そのあたり個人差があるだろうが 当時なら、十中八九、ドロンはまずその代名詞だった。 そんなイケメン俳優アラン・ドロンのことを思ってみる。 ふとメルヴィルの『サムライ』をみて ドロンという俳優が単に美貌だけで 世の羨望の眼差しを受けていたわけではないことを改めて理解した。 やはり、ちょっとオーラが違うのだ。
ある意味、時間が止まった世界の住人として見かねない先入観から 逃れえないといえるノスタルジーを引きずっているかもしれない。 それでもそれぞれに受けた印象は、時代を経て刷新されはするものの、 その感動や印象がけして色あせることなどないのだ。 今見ても、何かしらの発見や驚きがあり、感動がある。 そんなスクリーンを通して伝わってくる作り手たちの魅力的な空気を 言葉のみで伝えるには限界があるとはいえ、 できる限り埋めうるものを中心にカタチにしたにすぎない。 これは後生大事にしまってあるガラクタの宝石箱からの発信であり 美化しようというよりは、その魅力をただ伝えたいだけなのだ。