ヨルゴス・ランティモス『哀れなるものたち』をめぐって
エマ・ストーンが演じるベラ・バクスターは、 死体の身体に胎児の脳を移植された再構成された、 いうなれば人の形を残した怪物だ。 その設定だけを見れば、ネオフランケンシュタイン的な話だが、 本作が行き着く先は単なるホラーでもSFでもなく、 むしろ、快楽、自由、知、そして他者との関係性を通して、 自己が自己であるための条件を問いなおす"存在論的ラブストーリーを生き 目覚めたひとりの女性の物語である
エマ・ストーンが演じるベラ・バクスターは、 死体の身体に胎児の脳を移植された再構成された、 いうなれば人の形を残した怪物だ。 その設定だけを見れば、ネオフランケンシュタイン的な話だが、 本作が行き着く先は単なるホラーでもSFでもなく、 むしろ、快楽、自由、知、そして他者との関係性を通して、 自己が自己であるための条件を問いなおす"存在論的ラブストーリーを生き 目覚めたひとりの女性の物語である
原作朝井リョウによる岸善幸の映画『正欲』では 5人の登場人物が「なにをもって正解とすべきか」「マイノリティとは何か?」 といういかにも現代社会が抱える問いをめぐって 複数の視点が静かに交差する群像劇を描いた映画になっている。 ここには声高に何かを訴えたり、観客の感情を煽るような派手な演出はなく、 それなのに、観終わったあとには、胸の奥に何かがずっと残る。 何が正しくて、何が間違っているのか? その問いを、言葉ではなく映像と沈黙で投げかけてくる。
短くなれば、その分余計なものは削ぎ落とさねばならない。 その意味で、映画『宮松と山下』は見事なまでにセリフが少ない。 よって、85分というのは出色の長さゆえ、安心できる。 それだけで見たくなってくるというものだ。 もちろん、それは単に後付けの口実にすぎないのだが、 その分、実際、この映画にはなにかとそそられるところが多い。 まず、説明的な映画ではなく、過剰なシーンも無い。 そして、示唆的であるということだ。
そのセルフリメイク版は、その名のごとく、一本の直線ではなく、 くねり、迷い、絡まりながら進む不可解な道のりを辿る映画であり、 不条理なドラマである。 1998年のオリジナル版は、ジャンル映画の装いをまとった、 玉石混交のVシネの自由さと制約の狭間に 生理的な不快感をともなう構造的サスペンスを持ち込んだ。 2024年のリメイク版は、その構造さえ疑いながらも、 舞台をパリに移しての、新たな喪失と空白を埋める物語を演出している。
ヨーロッパ発の異色スリラー『胸騒ぎ(英題:Speak No Evil)』は、 観る者の胸に生理的な不快を残すバッドエンドな 「胸糞映画(一般には今年最も不穏な映画)」として話題をさらった。 ちなみに2024年にはハリウッドで 『スピーク・ノー・イーブル 異常な家族』としてリメイクされている。 日本語のタイトル「胸騒ぎ」を見て、 上手くつけたものだと感心したものだが とはいえ、誰かに勧めたくなるようなたぐいの映画でもないし、 かといって、みるに値しないと唾棄すべき作品だというものでもない。 この映画から、人は何を感じ、何を学習すべきか、 そんな視点をもって、この不快さにおぼれない程度の良識をもって ここはひとつ思慮深く受け止めてみるとしよう。
その一方で、この白石和彌監督の『碁盤斬り』は、 江戸情緒を漂わせ、武士道たる死の美学をちらつかせながら、 硬質で静謐な映像に、怒りにも似た倫理的な問いながらに、 異色の時代劇へと押し上げることに成功している。 主演元SMAPの草彅剛が、ここでは脱アイドルの完了形として、 演技における沈黙と間の巧みさ、 言葉を選ぶように語る誠実な声によって、 「語り」の本質を体現しているかのようにみえる。 そこは、ただの演技巧者というより、 どこか“語り部”のような存在として、浪人を体現している。 それは、語られざる誇りと、語りえぬ悔しさ両方を滲ませ臨む 男の美学、すなわち武士の覚悟そのものである。 碁盤という網の目に移し、静かに白黒をつけんとする姿勢は 最後、格之進が振り下ろした刀の結末として だからこそ、いっそう清々しさを禁じ得なかったのである。
『花腐し』と書いて(はなくたし)と読む。 『赫い髪の女』や『嗚呼!おんなたち猥歌』など 神代辰巳の映画脚本で知られる荒井晴彦の監督作品である。 その意味はというと、 せっかくきれいに咲いた卯木の花をも腐らせてしまうという、 じっとりと降りしきる長雨のことなのだそうだ。 なかなか風情漂うタイトルである。 劇中にも雨のシーンが度々あって、 そのシーンがなんとも良いのだ。
ある日、一人の男が屋根から落ちた。 それは事故か、自殺か、それとも殺人か? 雪に沈んだ身体のまわりで、誰もが真実を求め語り出す。 だが、肝心の真実は沈黙したままだ。 そこに『落下の解剖学』における他者理解の臨界点が見えてくる。 ジュスティーヌ・トリエが描く『落下の解剖学』では、 ひとつの死をめぐる推理劇であると同時に、 理解しえぬ「他者」という迷宮の、果てなき歩行が映し出されてゆく。
ロンドン郊外。 静かな住宅街の一角、パキスタン系ムスリムの家庭に育った少女リアは、 今日もひたすら回し蹴りを練習しているカンフー女子校生である。 座右の銘は「怒りの権化」、目指すはスタントウーマン。 まさに彼女はサードカルチャーキッズ、 つまりは多様な文化、第三文化で育った子供なのだ。 そんな将来の夢を熱く語る彼女の傍らでは、 美しく聡明な姉レナが、それまでのアート志向を捨て 突如として“良縁”とやらに捕まり、ウェディングドレスの試着中。 しかし、相手の実家がなんだか怪しい。 金持ち、イケメン、遺伝学者、しかしマザコンとくる。
水というのは、不思議な物質だな、と思う。 透明で、無色で、流れて、1滴でも大量でも中身は変わらない。 だが時に人や街さえ飲み込む力がある。 それは集合化した水のもつ脅威というよりも 日常の奥深くに宿るひとつの魔力なのかもしれない。 一見、静かにそのブルーを基調にしたトーンの室内、 あるいは衣装、水を通して淡々と繰り広げられる家族の群像劇、 荻上直子による『波紋』を観終わったあと、 なぜだか水についてぼんやり考えてしまうのだ。 ああ、こんなにも何気ない水が、 情熱を帯び、人の生活を揺さぶるものだったのか、と。