わすれ敵は今日だけの恋人
8月6日は広島に原爆投下された日。
三日後には長崎である。
忌まわしき事実。
何人にも消し去れ得ないこの刻まれし歴史は
永遠に変わることなどない、絶対に。
僕らはいったい何度目の夏を迎えただろうか?
夏だけはかくも律儀にやってくる。
僕はテレビなど見ない人間だが、ネットでもなんでも
この日が来ればセレモニーや報道の類いは耳に入ってくる。
それぞれのヒロシマ、ナガサキがいまもある。
が、個人にとって、なぜだかしっくりくるものが少ない。
正直、ひとつもない。
なぜだろう?
広島には縁もゆかりもない人間だし、
しかも、もはや遠い過去の話だ。
町はもちろん、国もかように復興を遂げた。
当地を歩いても、そんな思いから隔たった日常があった。
原爆ドームだけが、記念碑だけがモニュメントとしてそこにあった。
だが、その傷は永遠に皮膚感覚に突き刺さってくるのだ。
この国に生まれた以上、単なる一日などとは考えられない。
考えたくないのだ。
といって、何ができるでもない。
このもどかしさを永遠にかかえ生きてはきたのだ。
あえて、これみよがしの黙祷もしないまま日が過ぎる。
それだけで済まして、また日常に戻るのが怖いのだ。
そんななかで、あるときから、
何かを思い出し、何かを留め置くために、
自分なりの答えとして
原作マルグリット・デュラス、監督アラン・レネによる
『ヒロシマモナムール/二十四時間の情事』を観る、
ということだけを毎年、一つの行為として繰り返している自分がいる。
もう二十年来同じDVDを再生している。
むろん、誰のためでもない。
正義のためでも、恨みや怒りの思いからでもない。
祈りというならば、ただこのヒロシマを忘れないためだ。
そこで幾度となく目を瞑った。
眠気でもなく、決して悲惨さからでもない。
ただ無力さを体感するからだ。
ヒロインのエマニュエル・リヴァが
祖国フランスでのヌヴェールという場所を忘れまいと誓ったように
ぼくもまた広島の惨劇を決して忘れないために
ただ風化するのが怖いという、個人的な思いだけでこの映画を見る、
ということを長年課しているに過ぎぬのだが、
実はそれほど深く問題意識を抱え込んで生きているわけでもない。
当事者や関係者、その現実を知る者たちには
何より永遠に近づきえないだろう。
この映画を最初に見た時から
琴線にひっかかるとともに、忘れがたい映画であることも大きい。
これはまぎれもなく日本で撮られたフランス映画だ。
これを反戦映画だと思ったことは一度もない。
反戦映画というなら、この映画にもたびたび挿入される映画の中の映画
関川秀雄監督による「ひろしま」の方だ。
主演の岡田英二が共通して出演していることもあり、
当然この『二十四時間の情事』にかぶってくるが
話のベクトルは全く違う二本の映画だ。
デュラスの、さほど難解というわけでもないテクストも繰り返し読んだ。
一年ごとに観ても、いまだ色々発見があることに驚くが、
あまり深刻なことを書くつもりもないが言っておくと
ヌヴェール時代の若き頃のリヴァには
少々演出上無理を感じたこともあるが、あれはご愛嬌だ。
これはドキュメンタリーでもなく、
紛れもない西洋からみたフィクションとしての映画なのだ。
そういいきかせることで何かが救われる思いがする。
そう、客観性だ。
サシャ・ヴィエルニのカメラによって映し撮られた
まるでフィルム・ノワールのような
陰影を持った当時の広島の街並みが
不穏な空気感に包まれながら入ってくるのだが、
ジョヴァンニ・フスコの素晴らしきスコアとともに
終始目に焼き付いている。
時には原爆投下のドキュメントフィルムや
関川秀雄「ひろしま」から撮影風景が挿入される。
そこには、加藤泰や山田五十鈴が被爆市民の役として写りこんでいる。
その意味ではヒロシマは遠いながらも
どこかで近しい思いとして自分の中にも写りこんでいる。
世界で唯一の被爆国であり、そのご当地広島を介して、
遠くフランスで同じように戦争によって愛が引き裂かれた女と
地元広島でまさに家族を失った経験を持つ男が
偶然に出会い、そして情事を重ねる中で
これから引き裂かれようとするすれ違いを
たった一日の出来事でまとめあげるという、
デュラスの脚本の素晴らしさを
改めて痛感することになる映画でもある。
ちなみに、一般にフランスではHを発音しない(できない)。
いわゆる無音のH(アッシュ)というやつだが
その建前によって、HIROSHIMAはIROSHIMA、
つまり被爆都市から「恋の町」に変わるのをみる。
なんということだろう。
なんという偶然だろうか?
「広島で何もかも見たわ」という女に
「君は広島で何も見ていない」と返す男。
女は遠い異国の被曝した事実は知っているが
本当のところ、何を理解しているわけではない。
無論、瞬時に全てを奪われてしまった犠牲者たちに
いくら言葉を尽くしても
我々日本人だというだけでは何も理解などできやしないのだ。
そうした他者との違和感、ズレ、距離感。
理解し合うことの難しさ・・・
そうしたものの表層に男と女の戯れがある。
モノクロームの熱量とともに滲むざらざらの肌とあせばんだ肌の質感。
『二十四時間の情事』が優れた映画であるのはその違和感なのだ。
冒頭でも書いたように、
ここでは何人も戦争の悲惨さを実感することもないし
広島という街、あるいは悲惨な体験を経てきたものたちへの
意識の共有をするとも思わない。
だが、それをやはり無関心ということにはできない何かがある。
それが我々日本人の宿命だといわんばかりに
岡田英次扮する男はそのことを感知している。
だから、単に女との別れだけを嘆いているわけではないのだ。
その間に流れる決して理解し合えないものに出会い
その思いを広島という土地で受け止めるしかない。
僕は観た、この『二十四時間の情事』をすべて観た。
何年にもわたり、くりかえしくりかえし観てきた。
いや、結局のところ、僕は何も見ていないのを実感するばかりである。
そう、この『二十四時間の情事』、この映画ですら、
何も見てはいないのだという事実に絶望する。
だが、唯一、そこに男と女の出会いがある。
ただ一日だけ、それを忘れて愛し合う二人がいる。
だからあえて僕はここに記しておこうと思う。
どんなによくできた戦争映画やリアルな記録映像より
『二十四時間の情事』がこうして心に響くのは
自分もまた、そんな男のひとりになり得たかもしれないということだけだ。
Hiroshima Mon Amour:Ultravox
映画とは関係ないのだが、イギリスのニューウェーブバンド
ジョン・フォックスが在籍していた頃の
オリジナルメンバーでのULTRAVOXが出した2ndアルバム
『Ha ha ha』に収録されていた曲が「Hiroshima Mon Amour」。
映画ではなくデュラスの本にインスパイアされた曲だと思うが
まさにニューウェーブらしい曲調で今聴いても素晴らしいほど不穏な空気に満ちている。
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