壊れない女
基本的に、アメリカンな女優は苦手だ。
あえて紋切り型ないい方が許されるとして、
大柄で、オーバーアクション、その上、奥行きがない脳天気さで
演技をまとめあげてしまう力技を駆使するハリウッド的な女たち。
誰とはいわない。
だが、ジーナ・ローランズはちょっと違う。
いわゆるいい女でありながら、激しい感情に揺すぶられはするが
それでも、彼女は常に苦悩する。
甘えない。動きを止めない。
たとえ、それが間違っていようといまいと、突き進む。
怖い形相でにらみ、そしてときに、そこから涙を滲ませ
スクリーンに生身の魂を刻んできた女。
そんな女優ジーナ・ローランズは
ジョン・カサヴェテスの映画を語るとともに、必然的に「ミューズ」と呼ばれる。
だが、その言葉には、どこか危うい響きがする。
ミューズとは、作家に霊感を与える存在であり、創造の源泉である。
しかしジーナは、単にインスピレーションの源泉だったのだろうか?
むしろ彼女は、カサヴェテスの映画が内包する「愛の量」を、
身体で引き受け続けた存在ではなかったか?
カサヴェテスの映画には、常に過剰な感情(エモーション)がある。
アメリカのインデペンデントの雄としての映画制作の現場では
よりダイレクトな演出で、ごまかしの利かない生身の演技が求められる。
それは整理されないし、説明もされない。
観客にとって必ずしも快適な形に整えられないものだ。
その過剰さが、しばしば観る者を困惑させることがある。
台本なしで撮られた最初の実験作『アメリカの影』では、
多くの人を困惑させ、途中で席を立つ人も多かったという。
だが彼は、決してその方向性を変えようとはしなかったが、
そこに求められていたのは、技巧以上に人間の感情だと気づいたカサヴェテスは
その思いを昇華させながら、台本も用意し、追加撮影を行い
映画を再構築している。
そうした姿勢に寄り添うには
ジーナ・ローランズの生身、その身体性が重要になってゆく。
ここにこそ、彼の映画倫理がある。
その倫理が最も過酷な形で露わになったのが『壊れゆく女』である。
この作品、ジーナ・ローランズのメイベルはなぜ崩れたのか。
世界に適応できなかったからではない。
世界が、彼女の愛に耐えられなかったからだ。
メイベルは夫を、子どもを、来客を過剰に愛する女である。
だがその愛は常に他者に向かっている。
それは自己陶酔ではない。
問題は、その振幅が社会の許容量を超えてしまったことだ。
家庭という制度は、安定の感情を求める。
扱いやすい愛を求める。
メイベルの愛は、その枠をはみ出してしまった。
そして彼女は「正常」の名のもとに隔離される。
だがここで重要なのは、映画が彼女を病理化しないことだ。
カサヴェテスは、彼女を悲劇のヒロインにも、社会批判の象徴にも還元しない。
ただ、壊れた存在としての役を与えた。
最初は、舞台用に書かれたものだったらしいが、
それを演じる前に、ジーナもまた、少しためらいがあったという。
「こんな役を毎晩演じるなんて無理。そんなことをやったら死んでしまうわ」と。
そうして、改めて映画用に書き換えられはしたが、
それでもこの映画のメイベルに救いはない。
そんなヒロインを引き受け演じている。
だが映画は決して彼女を見捨ててはいない。
この冷静さこそ、恐ろしく誠実な演出に支えられている証だ。
ピーター・フォーク演じる夫のニックは悪い人間ではないが
癇癪もちであり、妻を愛してはいるものの
そこまで彼女を理解しているわけではない。
この溝が少しずつ彼女を狂わせてゆく。
それはどんな家庭、カップルにも起こりうることだが、
人間の内的な孤独や狂気に目を向けてきたカサヴェテスは
その矛先をジーナを通じてリアルに解体してみせた。
そこで視線を少し引くと、ある相似が見えてくる。
カサヴェテスの映画制作そのものが、メイベルと似ているのではないか?
ハリウッドという制度の中で、彼の映画は常に過剰だった。
整理されない感情、長すぎる場面、抑制されない爆発。
産業が受け止められる愛の度量はそう大きくはない。
だが彼は譲らなかった。
メイベルが壊れたのは、愛の加減を知らなかったからであり、
カサヴェテスが孤立したのもまた、愛する加減に容赦がなかったからだ。
この微妙な均衡が重要だ。
そしてその振幅を、誰が受け止めたのか?
それがジーナ・ローランズである。
彼女は単なる支持者ではなかった。
理念に賛同する位置にいたわけでもない。
彼女は理論を語らない。
運動を起こさない。
ただ演じる。
感情を理解して、寄り添う演技にかけた。
その身体を通して、過剰な感情を実在化してきたのだ。
『フェイシズ』では消耗しながらも壊れない女性を演じていた。
『ミニー&モスコウィッツ』では、最後はかろうじて愛の祝福に終わるが、
壊れそうなまま世界に立ち続ける知的な女性ミニーを演じた。
『グロリア』は、弱さを意志に変えた女性がマフィア立ち向かい、
鬼の形相で他人の子供を結果的に身を張って救ったのがグロリアだ。
『ラヴ・ストリームス』では、愛情の深さが空回りする役柄で
孤独を抱えながらも愛の流れに抗えず自滅する存在をサラを演じた。
そしてこの『壊れゆく女』ではついに壊れた女となった。
ここがすなわち愛の臨界点である。
彼女にしたところで、所詮キャパオーバーには抗えない。
それまでカサヴェテスの映画は、
「壊れそうなまま立たせ続ける」という倫理を保っていたように思う。
それはかろじてハッピーエンドにみえる『ミニー&モスコウィッツ』や
役目を果たし物語を強制的に帰結した『グロリア』に顕著である。
だがメイベルは踏みとどまれない。
その瞬間、カサヴェテスの作家としての方法論は破綻しかける。
ジーナはその破綻を身体で演じきった。
逃げず、説明せず、その崩壊を受けとめた。
はたして、それは映画における共犯だったのか?
ある意味ではそうだ。
彼の過剰さを止めなかったし、彼の振幅を自分の身体で増幅した。
だが同時に、彼女は彼の思想に回収されなかった女優でもある。
私生活では三人の子供たちの母親として、
そして、カサヴェテスの映画制作を裏で支え続けた。
だが、映画の中で彼女は支配されない強さを滲ませ、
その愛の強度を具現化してきた。
むろん、彼女は映画に守られ、ジョンの主体は変わらない。
だが、たとえ夫が監督であっても、彼女は「素材」にならないし、
どの役も、映画に従属しないという彼女の立ち位置が変わるはずもない。
常に、対等に、そしてその均衡が映画のダイナミズムにつながった。
とはいえ、ここに決定的な距離がある。
共犯でもなく、単なる支持でもない。
それは「同じ振幅で世界に立つ」という選択だ。
ジーナは、カサヴェテスの過剰な愛を減らさず、しかし破壊にも変えず、
映画という枠の中に保持し続けた存在である。
彼女がいなければ、カサヴェテスの映画は
独りよがりの暴走になったかもしれない。
だが彼女がいたからこそ、その過剰さは「ドラマ」として成立した。
彼女なしにカサヴェテス映画は成立しない。
ミューズとは、作家を鼓舞する存在ではない。
作家の倫理を、身体で試される存在である。
世界が耐えられない愛の量を、映画という空間でぎりぎりまで保持する。
その試練を、彼女は引き受けたし、ふたりをつなぐ愛の基盤だった。
だからこそ彼女はミューズたりえたのだ。
メイベルは壊れても映画は壊れない。
その境界線にジーナ・ローランズという女優が立ち続けたからだ。
カサヴェテスの映画は、愛を絶対量が減ることはないし、
その強度も揺るがない。
また、ベクトルが変わることもない。
そしてジーナは、その膨らみ続ける愛を、
決して神話にせず、現実の身体として差し出してきた。
そこにあるのは、夫婦愛の美談ではない。
映画における、倫理の持続なのだ。
愛の絶対量に手加減しない。
それでも壊れない強靱な関係。
その不可能に近い均衡の上に、カサヴェテス映画は成立っている。
そしてその均衡を、最後まで支え続けたのが、ジーナ・ローランズだった。
そんな彼女は、ジョンをはじめ、ピーター・フォーク、シーモア・カッセル、
ベン・ギャザラといった同志たちを見送り、子供たちの成長を見届け、
それぞれ映画作家になった、ニック、ゾエの作品にも出演しながら、
晩年はアルツハイマー病を患いながらも、94歳で天寿を全した。
カサヴェテスがアメリカインディペンデント映画の父というならば、
アメリカ、ダイレクトシネマ史に輝く永遠の姐御として
その名を刻まれていくだろう。
Patti Smith – Gloria
ジーナとパティはそのオーラが被るような、被らないような、実はとくに交差することはない。ただ、いみじくも、グロリア繋がりで、ひらめいた、Themの曲の「Gloria」、その曲をカバーしたパティ・スミスのロックナンバーを、ジーナ・ローランズに捧げてみよう。“Gloria”とはラテン語で「栄光」を意味する言葉だが、ヴァン・モリソンの、10代の衝動が、そのままシャウトした熱量として、単なる恋人の名前と重ねて歌っていたわけだが、パティ版では、神の栄光、女の身体、自己の解放、そしてアメリカという国の神話すべてが混ざり合っていた。
冒頭の、「Jesus died for somebody’s sins but not mine.――(イエスは誰かの罪のために死んだかもしれない。でも、私のためじゃない)。」という歌詞に象徴されるように、まさにパンク詩人パティによって、書き替えられたプロテストソングの様相になっている。ヴァンはこのカバーを気に召していないようだが、ぼくはあえて、この同じく、壊れず志を貫いたパティの曲として、ダイレクトシネマ史に輝く永遠の姐御ジーナの“栄光”に捧げたい。












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