リュック&ジャン=ピエール・ダルデンヌ『ロゼッタ』をめぐって

ロゼッタ 1999 ダルデンヌ兄弟
ロゼッタ 1999 ダルデンヌ兄弟

同情するなら仕事をくれ

自分はどこまでも苦しく、本当は藁にもすがりたいくせに
かといって他人に弱みを見せられず、
一人でその地獄から抜け出せないといった人が一定数いるように思う。
自分もどちらかというと、そういうタイプの人間なのかもしれない。
素直に、感情を吐露し、人に助けを求めることは
負けでもなく、弱虫でも、逃げでもないことを知ると随分楽になる。
それは間違いない。
だが、性質ってものはなかなか変わらない。
何より、そこまで深刻な問題を抱えてもいない、という見方もできる。
しかし、人間なんて、実にもろく、弱いものなのだ。

ダルテンヌ兄弟による映画『ロゼッタ』の主人公ロゼッタが
最後に嗚咽する涙に、少し救われた思いがするのは
そうした思いをついてくる映画だからかもしれない。
人間らしさ、人間味、とでもいうのだろうか。
アル中で生活難、しかも、セックス依存で
身体を売るしか能の無い未来がない母親との生活の中で
ただ、普通に暮らしたいという思いから、
必死に仕事を求めて、格闘する姿を一方的に見せてゆくロゼッタ。
映画は、この孤立無援の娘への憐憫を募らせはするが、
一方で、優しく寄りそうおうと手をさしのべてくれる天使
リケでさえも邪険にされるのだから、やれやれ
困ったものである。

さて、問題はどこにあるのか?
ベルギーという国が抱える社会そのものなのか?
はたまた、選べない環境下、母親のだらしなさなのか?
それとも、かたくなに意地を張るロゼッタ自身にあるのか?
ダルデンヌ兄弟はけして善悪で裁くことはしない。
ただ、目の前にある過酷な状況をドキュメンタリーのように
生々しいカメラで、今日もまた走りもがく少女を追うだけだ。

走ること、それは彼女にとって意思でも夢でもなく、
まさに生きるための唯一の術なのだろう。
社会の裂け目に落ち込み、言葉を失った者の身体だけが
なお世界へ抗うために動く、動くしかないのだ。
その姿は、もはや「人間を演じる人間」ではなく、
窮鼠猫を噛む、といったような、
追い込まれた小動物のように粗野でむき出しである。
ダルデンヌ兄弟の『ロゼッタ』は、そんな生存の瞬間を、
ほとんど暴力的なまでのリアリティで観客に突きつけてくる。

映画が始まって数秒で、観客は“説明”という安全地帯から追い出される。
背景も事情も語られず、ただ彼女の荒い呼吸と、追い立てるように揺れるカメラ。
ロゼッタの世界に“余裕”と呼べるものはなにひとつもない。
仮設住宅に二人暮らし、
母親からの優しい愛情など、遠い昔のことのように忘れてしまっている。
学校を出ていない彼女にとって、働くことは「生きること」そのものだ。
働けないことはすなわち「死」を意味する。
だがせっかくついた仕事もすぐに奪われてしまう。
助けてくれる制度も家族もない。
言葉を介した社会の網目から落ちた者が、
最後に頼りにできるのは自分の身体だけ。
かくも残酷だ。

ダルデンヌ兄弟が描くのは、文明の衣服を剥ぎ取られた「存在」そのものだ。
ロゼッタの焦りに満ちた眼差しは、
怯え、警戒し、しかし生き残るためには睨み返すしかなく、
その目は、観客に理解を求めることすらしない。
彼女は語らないし、語る余裕すら持たない。
言葉の不在が、逆に彼女の生を痛ましいほど露わにしていく。
ここで重要なのは、ダルデンヌ兄弟が“感傷”という逃げ道を
徹底的に断ち切っている点だ。
このスタイルは彼らの経歴に一貫している。
音楽もない。涙を誘う演技もない。
情緒を説明し、安心を与えるような台詞もないから
観客に「泣く自由」を与えないかわりに、「見る責任」を突きつけられる。
ロゼッタが走る度、観客は彼女の背中を追うことしかできない。
その背中には、社会が押しつける重さと、
どうにもならない現実の冷たさがこびりついている。
観客はそこで初めて気づくだろう。
自分は彼女を“助けた気にはなれない”という現実を。

そんな絶望的な状況では、神は自殺すら許してくれないのだ。
最後の晩餐だというのに、ゆで卵一個、
ガス自殺のためのガスすらも燃料切れ。
人生の敗北者ばかりを扱うカウリスマキが好きそうなシチュエーション、
そう、まさにトラジックコメディそのものである。
だが、そんな彼女の孤独を一瞬だけやわらげる存在がリケだ。
ワッフル売りの青年で、控えめで、
おそらくは彼自身も搾取されやすい立場にある仲間だ。
そのリケはロゼッタに優しさを向けるが、大袈裟なヒロイズムではなく、
沈黙のまま差し出されるかすかな温もりを届けようとする。
しかしロゼッタには、その優しさを受け取る余裕も信じる余地もない。
そして彼女は生きるために、彼を裏切る。
裏切りといっても、悪意ではなく、ただの生存戦略なのだ。
ここにも道徳の入り込む隙間などない。

それでもリケはロゼッタを見捨てない。
最後の場面、絶望のあまりガス管の重みにさえ抗えないロゼッタを、
英雄的救済ではなく、叫ばず、ただそばにいるだけだ。
その思いをただバイクのエンジン音だけで描き出す。
それが彼がさしのべる最大の愛であり、人間性のぎりぎりの救済だ。
だが、それは救いとは呼べないほど小さな光である。
それでも、暗闇の中で確かに光がみえることが重要なのだ。
その光を前にロゼッタは涙をこぼす。
あの涙が示すものこそ、希望ではなく、希望の可能性として。
“感情”ではなく“存在の揺らぎ”としての涙。
まさにダルデンヌ映画の核をみる思いで、思わず震えてしまう。

ダルデンヌ兄弟の作品は、社会問題を扱ってはいても、
決して社会派映画のように“問題を説明し、
観客に判断を委ねる”形式を一切取らない。
むしろその逆をゆく。
ロゼッタの行動はいちいち説明されないからこそ、
観客は自分自身の判断の曖昧さを突きつけられる。
彼女をどう見るか? 非難するか? 同情するか? 
そのどれもが正しくなく、同時に誤ってもいることで不安に駆られる。
観客はその“答えられない問い”の前に立ちすくむのだ。
そしてそのとき、観客自身が鏡に映る。
ダルデンヌ兄弟の映画は、社会を映すための鏡であると同時に、
観客の倫理観を映し返す鏡でもあるのだ。

ワロン地方の衰退、若年貧困、社会保障の網目の粗さ、格差の固定化。
『ロゼッタ』はこれらの背景を反映している。
しかし映画は頑なにそれを“説明”しない。
説明しないことで、観客に考える余白を強制する。
ダルデンヌ兄弟はそうした手法を
フランスの作家、劇作家、詩人、映画監督、そして抵抗運動家である
アルマン・ガッティに影響を受け、引き継いでいる。
生涯をかけて弱者・労働者・虐げられた者の声を拾い上げ続けた語り部だ。
ロゼッタがかけずり回る姿は、ベルギー社会の構造問題を象徴しながら、
同時にそれを超えて普遍的な問いへと広がっていく。
人は、限界まで追い詰められたとき、何を失い、何を守ろうとするのかと。
この問いは国家や時代を越えて、私たち自身に跳ね返ってくるはずだ。

ロゼッタを見ていると、観客は自分の“余裕”が剥がれていく感じがする。
余裕とは、他者の痛みに距離をとるための安全装置にすぎず、
しかし彼女の存在は、その安全装置さえも破壊してしまうのだ。
彼女の必死さの前で、観客は安易な同情さえも拒まれ、
安易な理解もまた突き返される。
ただ生きるために動く身体。そこに吹き出す抵抗。
生き延びるための、ぎりぎりのところで
観客が受け取るのは“感動”でも“悲しみ”でもなく、“まなざしの変容”なのだ。
映画を見終えたあと、きっと世界の見え方が少しは変わるにちがいない。
それほどまでにダルデンヌ映画の恐ろしい力を秘めている。
あらゆる暴力性が映画という装置のなかで静かにむき出しになるからだ。

だからこそ、私たちは『ロゼッタ』を繰り返し観たくなる。
その暴力性に抗う手段を考えるためだ。
だが、なにも感傷を求めるためではない。
むしろ感傷の霧をとっ払い、世界の輪郭をもう一度確かめたいのだ。
そうして少女ロゼッタの輪郭を静かに抱きしめる。
ロゼッタの走りは、社会の底に沈む者たちの叫びであり、
なお生きようとする生命の律動であり、そして何よりも、
観客自身の存在を問い返す鏡なのだから。

この映画はカンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞し、ダルデンヌ兄弟が見出したエミリー・ドゥケンヌのデビュー作にして見事女優賞に輝いている、いわば出世作である。その後クリストフ・ガンズによる『ジェヴォーダンの獣』にも抜擢され、そこから認知度もあがり、順調に女優としてのキャリアを順調に踏んで、私生活でも子供が産まれ、順風満帆な人生かと思われたが、今年の3月に希少がんで43歳の若さで他界している。まさに、ロゼッタの悲運に重なる女優であるが、ここに哀悼の意を込めておく。

ちょっとツラインダ · THE BEATNIKS

映画がちょっとシリアスすぎるもんだから、ちょっとぐらいは、希望のある、軽めのものを選んでみよう。ビートニクスによる『EXITENTIALIST A GO GO-ビートで行こう-』に収録の「ちょっとツラインダ」。幸宏のように、鈴木慶一のように、理解しあえる仲間がいればいいんだけど、辛い時に辛いといえない本当の辛さもあるかもしれない。けど、この歌を聴いて、ちょっとは心を許す術のようなものを覚えてみると、その人生がよくなるかもしれない。ま、それぐらいしかいえないんだ、ボクは。そもそも、ボクはこの言葉を自分に向けて言っている。ただ、最近はそんなツラいと思うようなこともないんだけどさ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です