藤田敏八『バージンブルース 』をめぐって

バージンブルース 1974 藤田敏八
バージンブルース 1974 藤田敏八

失われたバージン感覚を求めて〜昭和男のノスタルジック狂騒曲

「ジンジンジンジン血がジンジン梅も桜もほころびて・・・」

今時、若い女子がバージンであることに、
なんらかの特別の価値というか、意味があるのだろうか?
などと唐突に考えてみる。
そりゃあ個人差ってものがあるから、一概にはなんともいえない。
わかっていますとも。
そもそもがパーソナルな話だし、他人に言うことでもあるまい。
なにより、男と女では考え方に相違があって然るべきだし
もちろん、男と女の間には暗くて深い川ってなもんがあるものだ。
所詮、真剣に考え、答えを導き出すようなことではないのだが
当事者にしてみれば
人生におきる最初の一大事だといっていいのかもしれない。
なぜなら、バージンから非バージンへの以降は
確実に他者が介在しなければならないから、である。
身内の人間さえも所詮他者だという認識が芽生えはじめる年頃でもあり、
異性間においては、実質上避けては通れぬ最初の関門である。

ここでは、物語としても、一応、膨らみが期待できるところではある。
他人ごとならばどうでもいいことではあるが、
それが仮に自分が好きになった女の子や
日頃気になっているアイドルが
バージンであるか否かにおいて、
少なからず小さな問題ではなかった当時、あの頃が、
そういえば自分にもあったような気がしないでもない。
懐かしいといえば懐かしい感覚だ。
ははは。随分昔のことではあるけれども。

そもそもなんでそんな話をしているかというと
野坂昭如が歌う「バージンブルース 」という曲があって
それを時折なんだか思い出したように、頭の中に鳴り出し、
口ずさんでしまうこともあるということで、
そのままズバリのタイトルの映画
秋吉久美子主演、藤田敏八による『バージンブルース』を
久々に見返してみることになったからである。

秋吉久美子というと、その昔「子供は卵で産みたい」などといって
世間を賑わした、昭和世代、元祖不思議ちゃん女優である。
今はそれ相応のいい歳になっているわけだが、
やっぱり、このころの秋吉久美子はなんとも可愛いのだ。
昭和の残滓をしっかりと漂わせたこのB級ロードムービー、
今見ても悪くないのは、そんな彼女が何かとそそるからで、
いや、今だからこそ、いいのかもしれない、そんな感覚だ。

別に美女でもなきゃ、演技派というわけでもない女優がいて
ただ単にこの秋吉久美子が“イケてる”というだけじゃ映画は成り立たない。
当然そこには、ヒロイン巡って登場する引き立て役が必要だ。
くたびれ感フル装備の中年の星、長門裕之が
これまた実にいい味を醸し出している作品でもある。
この男は妻子がありながらも、生活に行き詰まっており
なのにスケベ根性ありありの態で、予備校生の尻を追っかけ
わざわざ岡山くんだりまでついて行って
最後は、この不思議ちゃんをモノにしちゃうわけだから
なかなか心憎いしたたかな男である、といいたいが、
全然プレイボーイでもなきゃ、
男としての魅力に溢れている、ということもない。
その風貌は実に冴えない。
冴えないくせに、若い女子に犬のように付きまとって
この秋吉久美子と懇ろにやって実に楽しそうなのである。
いやあ、羨ましいったりゃありゃしない。
まさにそこがこの映画の魅力になっていることに気づいた。

秋吉久美子扮するまみは不良予備校生(変な言い方だな)で
集団で万引きなどをして警察に追われるのだが
といって、別に悪意があるわけでもなく
かといって、思想や哲学がある、ということでもない。
なんとなく、いけないことをするだけの二十歳そこそこの女の子である。
が、そういうタイプが一番始末に負えないのだ。
困ったちゃんなのである。
同郷の仲間のリーダー格ちあきは
結局親に付き添われて警察に出頭すると、
まみは乙女心の小心さがこみあげ
センチになったりするからやれやれである。
中年男としてはそういうところにくすぐられて
ほとんど所持金も底がつき始めているというのに
女房に電話して、さらに金を画策しようとするあたり、
本当にダメな男っぷりである。
そんな二人に当然この先未来などあるわけもないが、
そこで急に現実を描いたって面白くもなんともないところで
始まるロードムービーの結末は、
最後は海へと入って泳ぎ出す、というシーンで幕が下りる、
ランボーよろしく、太陽とつがった海的な、ポエジー的終焉であるとは言い過ぎか。

この『バージンブルース』は
こうしたバージンか非バージンかわからないような年頃の、
ちょっと素行のよろしくない女の子たちを主人公に据えた
さすらいのロードムービーかと思いきや、
実は、これはたわいもない中年男のロマン、
いってみれば、妄想によって男の哀愁を掻き立てる
そんな作品になっているのはざっと紹介した通り。
それを演じる中年男、平田自身が
いたって「バージン脳」のダメ男であり、
困ったちゃんと結びついてしまうところが
同じ男としてはなんとも微笑ましいのである。

さて、タイトルにある「バージンブルース」は
昭和の文豪? 野坂昭如を代表するナンバーであり
映画の中にも本人が登場して、生の声を披露している。
野坂氏といえば、何と言っても戦後焼け跡派として名を残した人だが、
この時代、七十年代では
すでに流行作家として名が通っていた人である。
しかも、書斎でひたすら文学だけを追求しているような人ではなくって
歌あり、CMありとパフォーマーとしても一時代を築いた人でもある。
政治家の道を志したこともあった、なかなかの才人である。
今の人の記憶に、どんなポジションで刻まれるのかはしらないが、
実に興味深い、まさに昭和を代表する文化人である。
かくいう自分は、10代の頃こそ
三島、太宰といった純粋な文学に親しんではいたが
二十歳を超えてから急激に近しく思えた日本人作家の一人であり、
未だ偏愛の情を抱く作家の一人なのである。
不真面目をまじめに追及する美学、とでもいうのだろうか?
いずれまた、時代が巡り、きっとや野坂ブームがくる日を信じて、
いまだ、その文学を嗜んでいたりする人間としては
この映画版ノスタルジーもいたって友好的に受け止めるにやぶさかではない。

その野坂節炸裂の「バージンブルース」は
あの戸川純がカバーして、
そのバージョンにも随分触発されたものだが
このオリジナルの味には叶わないと改めて思う。
そんな「バージンブルース」を思わずくちづさみつつ
昭和の空気や男の切なさをかみしめながらも
なぜだかにやけてしまうのが、この『バージンブルース』に
そこはかとなく漂っているのである。
ちなみに映画の中でご当人がそのまま出演して歌うシーンがあるのも
今となっては貴重である。

バージンブルース :戸川純

何でもかんでもブルースをつけりゃあいいってもんでもないだろ?とお叱りを受けるかも知れないが、それが野坂節であり、個性なのだ。ご本人のバージョンもいいが、ここはニューウェーブバージョンと言いますか、戸川純のバージョンを聴いていただきましょう。
これはこれでいいんだよなあ。

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