静まれファシズムよ。復讐するはゴダールにあり。
自分の嗜好を冷静に分析してみれば
時代や国境、ジャンルに左右されはしないとはいえ、
その好きな文化的要素やバックボーンは
80年代、90年代よりは
どうしたって1970年代に負っている。
映画においては、なおさら顕著に思えてくるのだ。
新しい時代の価値観が求められ
それを実際に希求する意思、躍動性目覚ましい
あの頃の空気に惹かれてしまう。
60年代以降、革命をもたらせたゴダールをはじめとする
ヌーヴェル・ヴァーグそのものの動きから、
あえて、ポストヌーヴェル・ヴァーグとも言うべき、
70年代初頭に製作されたニューシネマ隆盛期の作家たちの映画、
ヴィム・ヴェンダース、ダニエル・シュミット、
はたまたヴィクトル・エリセなどといった
時代を代表する監督作品のまえに、
よりリアルで実直なる薫陶や啓示をうけてきた思いが
今尚、強くあるからかもしれない。
中でもベルトルッチの『暗殺の森』は忘れがたい一本である。
そのベルトルッチのフィルモグラフィの中でも、
掛値なしでベストワンにあげたい。
初めて観たときには、
正直、ムードというか、雰囲気の濃厚さばかりに
気を取られているあまり、
内容を深く読み込めていなかった気がしていたのだが、
その後何度か見直しているうちに、
次第にベルトルッチが描き出したいものが
実に、深く刺さってくる。
原作はモラヴィアの『孤独な青年』だが、
映画も小説も、原題は『順応主義者』と訳されるべきところを
ニュアンスに誤差が生じている。
冷静にとらえ直した際には、
本編は単に、『順応主義者たる孤独な青年が、
森の中の暗殺に立ち会う』話であり、
ファシズムの終焉とともに、
少年期のトラウマによって苦しみ行き着いた、
そのファシスト足らんとしたその人生の幻想が、
あっけなく無化されてしまう作品なのだ。
つまりは心理的ファシズムからの解放を意味する幕切れが
格調高き映像美の末に用意されている。
そんな『暗殺の森』においては、ぼくの好きな俳優たちが
ファシズムと反ファシズムとの緊張した関係性の中で
こぞって、その魅力を最大限に発揮してくれているのが嬉しい。
それもまた、この映画に釘付けにされる理由の一つである。
ヴィットリオ・ストラーロによる映像美が手伝って
まるで非のうちどこがない芸術の香りが、それによって滴っている。
よって、本編は、1930年代、政治的対立の間によって
台頭していったファシズム情勢そのものより、
むしろブルジョワジーたちの優雅な戯れに耽溺しており、
この退廃的な風俗性にこそ
重きが置かれている作品として支持しているはずだ。
その中心は、幼少期のトラウマを引きずってきた
ファシストたるマルチェッロ演じるジャン=ルイ・トランティニアン。
渋く、クールなまでのニヒリズムを目の当たりにしていると、
やはり、この孤独な青年そのものの内面性は
この人にしか醸せない、代用効かぬ絶対の知性が
必要だったのだ、と納得するばかりである。
トランティニアンといえば、
例えば『男と女』で見せたいわゆる大人の男女の絡みから
すでに90を越えた老境の際にさしかかって、
それまで培った深みを集大成のように滲ませる風格、
例えば、ハネケによる『愛アムール』や
ルルーシュ『男と女 人生最良の日々』まで
愛の普遍性を見事に体現しうることのできる名優として
輝かしいまでの経歴を誇っている。
その男の、若かりし頃の代表作で、
ここでかりそめの逃避のパートナーとして選んだのは
若き奔放なイタリア娘ステファニア・サンドレッリ。
そのジュリアと間で、隠れ蓑としての結婚生活を演じるのだ。
一方、反ファシストの教授の妻アンナは
雪舞う森の中で暗殺に伏すことになる。
その女を演じるドミニク・サンダは、
しっとりと官能性を秘めた美の化身だ。
いみじくもイタリアとフランスと言う両国の象徴を果たすとも言うべき、
二人が手をとってダンスするシーンには
思わず食い入ってしまうほどにうっとりする。
なんとも悩ましく美しさが漂う。
ファッションやインテリアは見栄えのするロココ調。
白黒、ボディラインくっきりの
大胆なバイアスカットのイヴニング・ドレスを纏い
ブロンドとブリュネットといった女優陣の
このレトロモダンなコントラストをみよ。
実に美の官能性が際立ったワンシーンでもある。
この後、森の中を馳け廻るドミニクの暗殺シーンをめぐって
この場面こそは、映画のハイライトへの助走である。
そして、少年期のマルチェッロを惑わせた
男色家の元牧師リーノを演じるのが
これまた癖の強い俳優ピエール・クレマンティ。
『ベルトルッチの分身』で見せた、
まさにベルトルッチの分身ともいうべき存在の男だったが
ここでも変わった男を演じている。
マルチェッロのトラウマの発端でもあるその要因は
この男が握っているのだ。
そのリーノをピストルで撃ち殺したと言うトラウマから
ファシストへの道を歩まねばならなかったマルチェッロの葛藤が
ラストシーンで爆発する。
殺したはずのリーノが生きているではないか。
自らを追い込んだ負の暴雨力的感情は
いみじくもファシズムの幻影とともに崩れ去ろうとして
マルチェッロの未来が空虚に暗示されるだけである。
果たして、たとえ錯覚としても
男は真のファシストたらんとしたのであろうか?
この映画でのベルトルッチの狙い、
つまり、ズバリ暗殺の矛先が、
どこかで忘れ得ぬあのJLGへの思いなのはまちがいない。
ここでは、反ファシストへの復讐として、
革命児ゴダールへの暗殺計画そのものが
この映画の背景に重ねられているのだ。
その思いが乗り移って、画面に緊張感を与えている。
暗殺のターゲットである、大学時代の恩師
クアドリ教授の家の電話番号が、
いみじくもゴダールのアパルトマンの電話番号と
同じものだと言うこのあからさまなからくり。
三十才手前でこんな野心的な作品を
撮りあげてしまうことになるベルトルッチの若き才能に、
ゴダールがどこまで本気で嫉妬したかどうかはわからないが、
あれほどまでにぞんざいかつ執拗に排斥しようとしたのは、
むしろその才能を高く意識していたからにほからなない。
この時、二人の年齢差は約10歳。
まさに政治的対立である。
原作で「エドモンド」だった教授のファースト・ネームを、
わざわざ「ルカ」と言う名前に書き換えているほどだ。
このルカこそは、ゴダールが
「カイエ・デュ・シネマ」時代に使ったペン・ネーム
「ハンス・ルカ」に由来するものであり、
教授の妻の名も「リーナ」から「アンナ」へと変更されているあたり、
この確信犯的な挑戦には、これ以上なにか言うことがあるだろうか?
マルチェッロがパリで、教授に電話をかけて、こんなセリフを言う。
「先生は思索の時代は終わった。行動の時が始まると言われました」と。
いみじくもゴダールが『中国女』のなかでいったことを
ここに引用してまで、巧みにそのすり替えを行なっているほどである。
『暗殺の森』とは、かつてもっとも薫陶を受けた師であるゴダールから、
五月革命を界に、ラジカルな攻撃対象にされ、非難を浴びた
気鋭の映画作家としての復讐のドラマでもあるのである。
Five Tango Sensations: Fear · Kronos Quartet
ピアソラとクロノス・カルテット。このバンドネオンと弦楽四重奏の見事な官能的マッチングは、ピアソラの最後のスタジオ録音となった。ベルトルッチといえば「ラスト・タンゴ・イン・パリ」を思い出すまでもなく、タンゴとの相性もバッチリ。眠り〜愛〜不安〜目覚め〜恐怖の5つからなる組曲は、このまま、映画のサントラになっていてもおかしく無い。
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