原一男『極私的エロス 恋歌1974』をめぐって
この世のもっとも神聖で、記念すべきドキュメントが 出産劇であることに誰も文句のないところだろう。 最初にして最後のこの一度限りの出来事がなければ そもそも生そのものはなく、よって死もへったくれもない。 だが、そんな重大なセレモニーを記憶しづけることは 男がもっとも介入できない困難な領域にある。 なぜなら、出産において、男は絶えず傍観者であり、 究極の他者であるからだ。
この世のもっとも神聖で、記念すべきドキュメントが 出産劇であることに誰も文句のないところだろう。 最初にして最後のこの一度限りの出来事がなければ そもそも生そのものはなく、よって死もへったくれもない。 だが、そんな重大なセレモニーを記憶しづけることは 男がもっとも介入できない困難な領域にある。 なぜなら、出産において、男は絶えず傍観者であり、 究極の他者であるからだ。
ドキュメンタリーとは、文字通り単なる事象の記録でもなければ 躍動的写真の連続体というわけでもない。 また、あるがままに晒された現実でもない。 それは多くのフィクショナルな劇映画となんら変わることはない、 映画としての、魔法や方法論を駆使した主張なのだ。