今村昌平

赤い殺意 1964 今村昌平映画・俳優

今村昌平『赤い殺意』をめぐって

今村昌平の映画は絶えずどこか異様なまでに重い。 他の作家の重さとは常に一線を画す重力感があり、 観るのを一瞬躊躇するようなところがあるにも関わらず 見終わると、疲れと共にずしり見応えをも感じとっているのだ。 それゆえに好き嫌いがはっきり分かれるのかもしれない。 それでいてどこか、可笑しみのような、 どこかでクスッ、と緩ませるそんな場面が必ず挿入されている。 これは今村自身が呼んだように「重喜劇」と言うべきスタイルである。 藤原審爾の小説が下敷きになった『赤い殺意』では、 気怠さが状況に追いつかず、重力のみが覆い被さって、 半端なき熱量で身動きがとれない主人公がいる。 冒頭の蒸気機関車はいったい何の象徴だろうか? それがおいおいわかってくる。

人間蒸発 1967 今村昌平映画・俳優

今村昌平『人間蒸発』をめぐって

「この映画はフィクションであり、そのあたり勘違いしないで下さい」 イマムラはそう念を押す。 なぜなら、フィクションであるということが、 この映画の救いであり、成功なのだという確信があるからである。 この映画は「蒸発者をめぐる考察」をしただけであり その本質が導き出されたわけでもない。 それどころか、問題の論点は「真実とはなにか?」であり 真実は誰にもわからない、という帰結の中で 映画に出演したという勲章はさておき、 登場人物たちのだれもが徳をしない、 まったくもって不快な思いしか残さない映画になっている。 そのあたりの執拗さは、他の映画にも見受けられる本質だが ここに、真実という生々しい現実がかぶってくるあたりに 映画としての面白さが広がっている。 作りの手の意図をはるか超えた次元でまぎれもない傑作に仕上がっているのだ。

復讐するは我にあり 1978 今村昌平文学・作家・本

今村昌平『復讐するは我にあり』をめぐって

映画版『復讐するは我にあり』では、 緒形拳扮する榎津巌という殺人鬼が 実話を元に書かれた原作に基づき 別解釈を加えられ、映像化された作品だと断言できる。 原作は、丹念に事実を洗い出し、その被害者側の視点にたって この榎津巌という人間像をあぶり出そうとする話だったが、 ここではさらに、原作と映画はあきらかな別物、という視点にたって この問題作をみなおしてみた。

『「エロ事師たち」より 人類学入門 』1966 今村昌平文学・作家・本

今村昌平『エロ事師たちより 人類学入門』をめぐって

ちなみに主人公スブやんとは酢豚の略で、 原作では「豚のように肥ってはいても、 どこやらははかなく悲しげな風情に由来するあだ名であった」 と記されているから、とすれば、小沢昭一ではなく、 当時なら、フランキー堺あたりが適任だったのでは、とは思うけれど、 このすすけたような小沢昭一の哀愁は、どことなくはかなくも十分に熱演であった。 ちょっとした性的倒錯を抱えた喜劇的中年エロ男を演じさせると、 この俳優は天下一品であると思う。