平沢淑子をめぐって
平沢淑子という画家の所業に触れるということは、 絵=網膜上の刺激などとは別の、 詩(ポエジー)をめぐるひとつの現象、 なにより唐突なまでに、詩的直感の啓示を受ける というようなひとつの事件なのだ。
平沢淑子という画家の所業に触れるということは、 絵=網膜上の刺激などとは別の、 詩(ポエジー)をめぐるひとつの現象、 なにより唐突なまでに、詩的直感の啓示を受ける というようなひとつの事件なのだ。
フランスにアラン・ジュフロワという美術評論家がいた。 6年前の2015年にすでにこの世をさっている。 評論家、というよりは詩人といった方が正しいだろう。 ぼくにとっては、この出会いこそは一つの啓示のようなものだった。 まるで雷にうたれると同時に また、雨に濡れる官能を知ったときのような 不思議な歓びと驚きといった、 いくぶん大げさな感慨をもつ書物というものがあって、 まさにジュフロワの『視覚の革命』にはものすごく感銘を受けたのだった。