パタフィジックとは?

パタフィジックとは?

『フォーストロール博士言行録』について

最終的かつ永遠に未完の曼荼羅冒険譚

文学史的な注目よりも様々な逸話と伝説だけで、今日まで、その存在を知らしめているであろうアフレッド・ジャリの文学的活動期間は実質10年強。彼が残したもっとも著名なる産物は、まぎれもなく演劇「ユビュ王」であることには疑いないところだが、その面白さがどこまで伝わっているかという意味では、シュルレアリスムの小説としての『超男性』という作品の方にやや分があるのかもしれない。とはいえ、ジャリという人間に、あるいは文学性を分析すればするほど、このパタフィジックという概念から、避けて通れない大いなる命題を投げかけられることは、どうやら疑う余地がない。そのパタフィジックを簡単に言葉で言い表せば「個の科学」であり、「想像力による解決の科学」だとジャリ自身が定義している。要するに、これとてひとつのサイエンスの端くれなのである。が、そんなことをいっても、簡単に解釈できるものではない。だが、『フォーストロール博士言行録』から、ジャリのパタフィジックとはなにかを読み解くことは可能だ。

第一巻 訴訟手続において、フォーストロール博士が、家賃滞納の罪で訴えられるシーンから始まるのだが、博士は存在論的に不可思議な存在(63歳で生まれ63歳で死ぬ)であるため、訴訟自体が現実世界との不協和音を響かせるパロディとなっている。つまりは、法律手続きが現実世界に根差すものの、博士はパタフィジック的存在であり、訴訟というシステム自体が戯画化されてゆくというわけである。

あるいは、第二巻「パタフィジックの原理」における九章をみてみよう。「フォーストロールより小さいフォーストロール」に書かれたファンタジー、というか、こちらのポエジーの方に惹かれるのだ。ここでは、フォーストロール博士が自らの意思で、ダニのごとく、小さく身を縮めてしまい、キャベツの葉の上で水滴に出会うことになるのである。つまりは自分がキャベツの葉の上の水滴と、あたかも同等になったという発想がなんとも面白い。

それは博士の二倍の球体をなしており、透明な球越しに世界の内面は巨大化されて見えていた。博士自身の姿は元の大きさに拡大されて葉の裏箔の上にぼんやりと映っていた。博士はこの球をノックするようにそっと叩いてみた。すると眼窩から外された可鍛ガラスの眼球のごとき水玉は、まさしく生きた目さながらおのが視力を調節して老眼になり、それから横の直径を軸にして伸び、近視の卵形となってやんわりとした弾力でフォーストロールを押し返すと、ふたたび球になった。(中略)

博士は長靴の爪先で、この構成要素の予期せぬ形相を蹴った。とたん水玉はすさまじい音を立てて破裂して、ダイヤモンドのように硬く乾いた。微細な新しい球となって四散し、緑色の葉脈に沿って思い思いの方向に転がっていった。それらの球のひとつひとつが、世界と接する点の、球体の投影図法にのっとって変形した映像を下に引きずり、世界の仮空の中心を拡大して見せるのだった。

こんな出来事が起こっている下では、キャベツの地下水道の決められたコースをたどって、葉緑素が緑色の魚群のように流れていた・・・

九章「フォーストロールより小さいフォーストロール」

以下8巻からなる『フォーストロール博士言行録』は、糞尿譚から膨大な古典の知識までを網羅した、ラブレー荒唐無稽の『ガルガンチュアとパンタグリュエル』の影響下にある冒険譚であり、それこそ『ウパニシャッド』が巻頭を飾り、『詩経』までが揚々と持ち出され、プラトンの模索から創世記のパロディが続く。

ジャリと言う人物は、章立てた詩篇をもって、そこにひとつの文学とするような形態と直感をあわせもった文学者ともいえるのだが、その意味では、全編読破し吟味するというよりは、ここにおけるジャリの文学性から、散文資質に応じて、断片的に、それなりに味わう方がジャリの正しい読み方なのかもしれないと思う次第である。

こうした全8巻のなかに、それぞれ個別の章があって、同時代人の文学者や詩人、画家などにささげられた、ジャリの私的で詩的な冒険譚? とでもいうべきか。
とにもかくにも、原書で読み切るには困難なほど、卑語、造語のオンパレードであり、当然、本書には、その注釈が一応、解釈の手ほどきになってはいるものの、ジャリの世界観を、ひとつの小説として理解しうるには限界がある。

  • 第一巻 訴訟手続
  • 第二巻 パタフィジックの原理
  • 第三巻 海を渡ってパリからパリへ、あるいは、ベルギー人のロビンソン
  • 第四巻 大乱痴気頭騒動
  • 第五巻 型どおりのお勤めとして
  • 第六巻 ルクルス邸にて
  • 第七巻 クルモオクム
  • 第八巻 永霊

こうしたイマージュの世界こそが、形而上学的科学のなせる技であり、パタフィジックの解剖学でもあるのだが、この本のなかでは、ジャリの創造性のバックグラウンドが、第一巻「訴訟手続」のなかの四章「博士の平肩する書物」に言及されている。
つまり、ボードレールに始まり、ロートレアモン、マラルメ、ランボー、ヴェルレーヌなど、当時の象徴主義詩人の、錚々たる顔ぶれが網羅されていることからも、ジャリはそうした運動のなかにおいても、たえず、神経を研ぎ澄ませながら、己の創作活動に反映していたことはあきらかなのである。そのなかには、自慢の「ユビュ王」さえも含まれていることからも、ジャリの創造の代名詞「ユビュ」が、本人にとって、いかにゆるぎのない創作物であったことは想像にかたくない。が、需要な要素としては22番目にあげられたラブレーの存在である。

これを読み解けば、ラブレーによるいわゆる「パンタグリュエリスム」が、ジャリにとってのパタフィジックの大先達になった、といっても過言ではないのかもしれない。なにしろ、卑語、造語、とりわけ“糞ったれ”な大巨人のガルガンチュアのスカトロジーに影響を受けての「MERDRE(糞ったれえ)」をはじめ、『ガルガンチュアとパンタグリュエル』からの引用や影響は枚挙にいとまがない。解説によれば、ラブレー『第二之書』第27章パンタグリュエルの透し屁から、五万三千人の矮人と矮人女が生まれる下りがベースになったという話(31音楽的な噴出について)も挿入されている。

ラブレー自身、第二之書・第一之書をアルコフリバス・ナジエ(Alcofribas Nasier)という筆名を使っているが、これはフランソワ・ラブレー(François Rabelais)の綴りのアナグラムなのである。

他にも第8巻「永霊」とは、神聖な物質アイテールと呼ばれる古代ギリシア人の間で考えられていた天空の霊気がエーテル(ether)をエテルニテ(eternite)と組み合わさった造語が現れる。ここにはジャリ自身の死生観が刻印された章であり、死は終わりではなく「詩=霊=永遠」への変化として受け止めることができるのだ。