『超男性』について
ジャリの『超男性(Le Surmâle, 1902)』は、フランス象徴主義文学の末期に現れた、あまりにも突飛で、しかしながら極めて精密に構成された文学的異形と言えるだろう。ジャリの名を知らしめたのは、言うまでもなく『ユビュ王』であり、彼の残した最大の業績は「パタフィジック(Pataøhysique)」という概念の創出であったという本筋は変わらない。しかし『超男性』は、戯画的で怪物的なユビュ王とはまた異なる文体と構造を持ち、文学史においてはむしろ、象徴主義からシュルレアリスム、さらにはポスト構造主義的文学観への移行期における「裂け目」のような存在として読むことができる。
物語の骨子は単純である。アンドレ・マルクイユという人物が、特殊なエネルギー飲料を用いて「1日82回の性行為」を成し遂げるという、科学的に支えられた性の神話が語られる。その背後には、科学万能時代への風刺と、機械化された人間の行動への鋭い諷刺が張りめぐらされている。ここで描かれるのは、性愛の極地というよりもむしろ、性愛の脱神秘化、すなわち愛と性が統計と化し、エネルギーと運動、消費と再生産のサイクルに組み込まれてしまった世界である。
このような人間像は、象徴主義文学における”憧憬されるべき魂”のイメージとは明らかに一線を画するものだ。ボードレールの猫、マラルメの白鳥、ヴェルレーヌの優しい音楽といった、象徴主義的主題に対して、ジャリが提示するのは、ピストル、自転車、酒、そして精液の機械的生産である。詩ではなく生理、耽美ではなく装置。これこそが『超男性』の持つ反象徴主義的構造であり、皮肉にも、それゆえにこそ象徴主義の終焉さえも象徴しているのだ。
また、『超男性』は一見して滑稽で馬鹿馬鹿しい物語でありながら、その語り口は驚くほど厳格で、数学的ですらある。会話の運びは幾何学的に交錯し、科学的実験や統計に基づいた記述が随所に差し挟まれ、まるで科学論文のような雰囲気を持つ。だが、その論理性が導くのは常に”非論理”であり、理性の果てに開かれるナンセンスの王国こそが、ジャリ文学の本質である。パタフィジックとはまさに、この「非論理の論理化」の試みであり、ジャリにおいては、論理が過剰であればあるほど、かえって世界の不条理さを浮き彫りにすることができるという信念に貫かれている。
ジャリの遺したこの作品が、後世に与えた影響は、決して小さくない。たとえば、ボリス・ヴィアンの『うたかたの日々』に登場する「ピアノカクテル」という機械的発明を想起するがいい。あるいは、レーモン・ルーセルの作り込まれたナンセンス装置群、さらにはマルセル・デュシャンによる「独身者機械(『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』」などが、それぞれ『超男性』の精神的継承者として読み解けるだろう。また、機械と身体、性と死という主題が、同時に空転しはじめる様は、のちのサド、バタイユ、バロウズらの作品に先駆ける存在であることをも証明している。
『超男性』という題名は、ニーチェの「超人(Übermensch)」の変奏のようにも響くが、ここで語られるのは、もっぱら英雄でも救世主でもなく、「性能を極限まで引き上げられた消費者=機械的人間」の姿である。つまり、ここにあるのは未来社会における”人間のアップグレード”のパロディであり、性と科学とスポーツが一体化する社会の先取り的風刺と言えるのだ。
結末において、マルクイユは死ぬ。それは肉体の限界による死ではなく、むしろ「機械的性能の終焉」としての死、いや、言い換えれば「観念としての死」である。彼は死ぬことによって、自らの過剰な存在を終わらせ、文学という機構においても完結する。だがその死こそが、ジャリという作家にとっての「詩的勝利」だったのだろう。
『超男性』は、文学の歴史のなかでおそらくもっとも特異な点に位置する。象徴主義の終焉を加速させ、パタフィジックの精神で未来の文学を笑い飛ばし、機械的であることの哀しさと美しさを同時に描き出したこの作品は、今もなお我々に問いかける──
“あなたは、いくつの詩を射精できるだろうか?”