相馬の古内裏 歌川国芳アート・デザイン・写真

『歌川国芳展 ―奇才絵師の魔力』のあとに

今、ちまたで浮世絵にスポットライト、との声が聞こえてくる。 大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」の影響があるとかないとか。 多少世代差もあるだろうが、 ある程度、一般教養としてなら、 まず北斎の名を知らぬ日本人などそういないだろうし、 そうなると、『東海道五十三次』の広重あたりだって含むはずである。 確かに河鍋暁斎や月岡芳年あたりになるとマ二アックなのはわかる。 国宝酒井抱一や尾形光琳などは少し渋すぎるとしても 昨今では、、若冲人気は高いところだし、 なら、その師匠格の歌川国芳あたりはどうか?

ジャン=ミッシェル・フォロン 《無題》アート・デザイン・写真

ジャン=ミッシェル・フォロン『空想旅行案内人』展のあとに

この展覧会では、こちらベルギーの画家、ジャン=ミッシェル・フォロンの世界が 記号が単に道標ではなく、夢の風向きを指し示していたのを確認できる。 目的地のない旅、目的さえ失って、なおも進みつづける旅人にとっての道標。 きっと、この展覧会に足を運ぶ人であり、私自身さえも誘われる先にあるもの、 個々思いは違えど、人類全体で進むべき道は共通だ。 フォロンの世界の魅力はそんなところにある。

デイヴィッド・ホックニー展 | 展覧会 | 東京都現代美術館アート・デザイン・写真

デイヴィッド・ホックニー展のあとに

陽光に満ちたプールサイド、水平に伸びる白い縁石、切り取られた空の青。 デイヴィッド・ホックニーの絵画を初めて目にしたとき、 多くの人がその明るさに目を奪われることになる。 まるで「幸福」の色を抽出したかのようなその画面は、 見る者を瞬時に惹きつけるだろう。 それは、ある種キュビズムの洗礼を浴びせかけようとした ピカソを超越した美の真髄だ。

宇野亞喜良展 AQUIRAX UNO|東京オペラシティ アートギャラリーアート・デザイン・写真

宇野亞喜良 「AQUIRAX UNO」展のあとに

東京オペラシティアートギャラリーにて 「宇野亞喜良展 AQUIRAX UNO」に行ってきた。 宇野亞喜良の大々的な展示には初めて足を運んだが、 広告はむろん、絵本や装丁の原画からポスター、彫刻に映像作品まで 幅広いジャンルとその個性に直に触れ 出品点数が900点越えというそのボリューム、その独自の世界を十二分に堪能した。 「アートとデザインの境界線は、この先20年のうちになくなるんじゃないかという気がする」 とはかの横尾先生の言葉。

ロピュマガジン【ろぐでなし】vol.42 スクリーンの文学アート・デザイン・写真

ロピュマガジン【ろぐでなし】vol.40 ポストパンデミック前編:アートでぶらり、美術鑑賞特集

絵を描くことは実に楽しい時間なのだが、 それと同時に、他人が描いた絵を見るのも、 これまた楽しいものである。 人間の個性とはつくづく、その人にしか宿らないことを教えられる。 絵は言葉とは違うものの、それでも人間性が如実に現れる。 アートとひとことでいっても、落書きもあれば、ファインアートもある。 また、コテコテの現代美術やコンセプチュアルアートまで、実に多種多様だ。 それこそ名の知られた画家の作品はいざしらず、 近頃では、素人画家や日曜アーティストにとって、 表現の場はいくらでもあるし、そのメディアもさまざまである。 デジタルを使えば、瞬間的なアートがその場で生成されてしまう時代だ。

アート・デザイン・写真

東京国立近代美術館「大竹伸朗展」のあとに

16年ぶりという東京国立近代美術館での「大竹伸朗展」では、 視覚にさえも重力が加わるのを改めて知った。 巨大なキャンバスはもちろん、 日常の漂流物をスクラップブックに詰め込み、 さびれた小屋をまるごとセット化し、 その究極が「ダブ平」という音響装置としての舞台を構築する。 大竹伸朗という巨人の、まさに、これら膨大で圧倒的な作品群への印象を、 あえて、陳腐な言葉や耳慣れない表現で置き換えてゆくことには、 こちらも深く注意を抗いながら、 全てを一瞬にして無に記される瞬間瞬間に出会ってしまった現実の前に 立ち尽くす。 だが、不思議にもそれゆえに、魂が浄化されてゆく快楽に溺れてしまうのだ。 これが芸術の快楽と呼ぶか、呼ばないかは自由である。

サクリファイス 1986 アンドレイ・タルコフスキー映画・俳優

アンドレイ・タルコフスキー『サクリファイス』をめぐって

タルコフスキーという映画作家のスタイルは、 いうまでもなく、独特な世界感を持ち、それを提示することにある。 歴史であれ、SFであれ、 描く世界は、絶えず難解で詩的映像を駆使した現代の寓話だ。 ワンシーンワンカットの長回し、あるいは生き物のようなカメラの移動をもって カラーとモノクロによる映像美を交差させながら、 たくみに水や火、風という元素を、 美的に、あるいは音響として随所にはめ込みながら、 廃墟や劇空間的な見せ方に彩りを添える…… どれもがタルコフスキー独自のスタイルに貫かれているといっていいだろう。 この唯一無二な映画観は、仮に誰かがその影響下にあろうが、 スタイルを表層的に模倣し踏襲しようが、そこに取って代われるものなどないのだ。

赤線地帯 1958 溝口健二映画・俳優

溝口健二『赤線地帯』をめぐって

日本が誇る大監督溝口健二の遺作『赤線地帯』を久しぶりに鑑賞。 この作品は、溝口の代表作としての位置づけは低いものであるが 今見ると、これはこれで溝口らしい作品だといえるし、 あたしゃ嫌いじゃないな。 要はこの映画、売春禁止法をめぐる娼婦(女)たちをめぐる人間模様であり、 決して、エロティシズムがどうの、そんな映画ではないし、 むしろ、リアルな人間ドラマと、 風俗史としての側面において秀逸な映画とさえ思うのだ。 ちなみに日本で「売春防止法」が公布されたのが昭和31年(56年)で 実際に施行されたのが二年後の昭和33年(58年)、 で、この映画の上映が1956年というわけで、 当時の赤線業者および世論の空気感は感じ取れる。 その道を生業とする者にとってはまさに死活問題だったのだ。

囚われの女 1968 アンリ=ジョルジュ・クルーゾーアート・デザイン・写真

アンリ=ジョルジュ・クルーゾー『囚われの女』をめぐって

映画のタイトルは『囚われの女』。 アンリ=ジョルジュ・クルーゾーの遺作である。 いったい、女はなにに囚われているというのか? 見終わった直後に、すぐには答えられない。 が、確かにおかしな女である。 こどもっぽさと女としての可愛らしさを同居させながらも、 なぜだか一人空回りばかりしている情緒不安定な女だ。 奇妙といえば、映画そのものが奇妙なまでに、視覚の刺激に満ち満ちており、 まずはそこに囚われることで、われわれも何かに囚われ 最後まで救いなき運命を辿る女ジョゼにつきあうことになる。

リスボン特急 1972 ジャン=ピエール・メルヴィル文学・作家・本

ジャン=ピエール・メルヴィル『リスボン特急』をめぐって

傑作『サムライ』を覆う渋いブルーを彷彿とさせるかのように この『リスボン特急』のオープニングの銀行襲撃の際にも その同じ気配を漂わせるこのメルヴィルブルーのただならぬ気配に、 この映画もまた、遺作にして傑作へと導びかれるのか、と期待に胸を膨らませるも、 残念ながら、この映画はそれまでのメルヴィルらしいキレが不足していることに 次第にトーンダウンしてゆく。 ある種の失望を覚えながらも、こうして追悼の意を示すが如く 諦観せざるをえない思いから綴っている。