三隅研次『子連れ狼 三途の川の乳母車』をめぐって
ちなみに原作からは「八門遁甲の陣」と「虎落笛」が 換骨奪胎されとりこまれこの一話を形成している。 漫画にはないダイナミズムと映画ならではの ロマンティズムが交差する『子連れ狼 三途の川の乳母車』。 色褪せぬ半世紀前のエンターテイメント、 とはいえ、とにもかくにも痺れる映画なのである。
ちなみに原作からは「八門遁甲の陣」と「虎落笛」が 換骨奪胎されとりこまれこの一話を形成している。 漫画にはないダイナミズムと映画ならではの ロマンティズムが交差する『子連れ狼 三途の川の乳母車』。 色褪せぬ半世紀前のエンターテイメント、 とはいえ、とにもかくにも痺れる映画なのである。
文学と映画というのは、基本、似て非なるものであるが 映像化されても、その中身が害われず むしろ、視覚的な魅力が加味されて新たなる傑作然として 今なお記憶に刻み付けられているのが『砂の女』であったが、 その作品を映画化した勅使河原宏によって またしてもこの『他人の顔』も原作の妙味を残しつつも、 映像言語としての面白さを引き出し、 新たな発見を見せてくれた作品として、忘れがたい記憶を刻んでいる。 いずれも安部公房の小説があらかじめ映像を意識して書かれたように思えるし、そこを加味し脚本をアレンジしているのもミソだ。
ここから本題、まず『お早よう』の冒頭では、 いきなり、このシーンから始まるのだ。 もっとも、演者は子供たちである。 学校からの帰り道の土手で、子供達が おでこを押すと、ブッだの、プーだの、 “おならマシーン”になった学童たちが得意げになるというシーンが なんともおかしいのである。 小津流のギャグである。 このギャク、途中で「軽石飲んでるか?」というセリフからも、 あきらかに野田高梧と小津安二郎のコンビが 先の上方落語から着想を得ているのは間違いないだろう。 なんとも洒脱である。
成瀬といえば『浮雲』が代表作にして最高傑作との評価はあるが 掘ってみれば、なかなか良作が他にも目白押しの監督で、 個人個人の好き嫌いをためらわずにいえば この『晩菊』なんかもあの『浮雲』に 負けじ劣らぬ傑作然としているのがわかる。
しかし、そこには黒澤流のテーマパークならぬ 様々なエンターテイメントの導線が張られている。 笑わぬ姫でさえ嬉々と踊る火祭りなどはその最たるものだが、 そこは細々した説明を省くとして、 絶えず、的確な判断と勇敢な行動力を駆使して 一行を力強く先導するアニキ六郎太に、 「右といえば左左といえば右」と言うわがままかつ手に負えぬがゆえに オシとして同行させることになった姫の視座こそが 物語の表のベクトルを提示している。 つまりは、潔さであり、一貫性であり、正義そのものである。
原作田村泰次郎からの映画化『肉体の門』を何十年ぶりかで見た。 以前観たのは映画館ではなく、確かローカルなテレビだったような気がする。 テレビで清順を眺めいるというのは気楽だが少し物足りない。 映画館の闇に身を置けばより楽しめるのは言うまでもないだろう。 その活劇では、泣く子も黙る清順節にグイグイ引っ張られるが 後期に見せたキテレツかつ人を食ったような、視覚第一主義とは一味違う。 いわば清順鈴木流リアリズムの追求はストレートに目につき刺さる。
最近の映画を見ていると、構造が複雑なものが増えたように思う。 ストレートでシンプルなものは少ない。 テーマも多岐にわたり、それによって時代を意識せざるを得ない感覚に捉われる。 かつて、あるいは過去にとらわれてばかりもいられないが、 良き日本のことを忘れたくもない。 この流動的で、変化に富む現代において、 時代を照らし出す映画というものを通して いまいちど、日本人の誇り、そして素晴らしさを再確認したい、それだけだ。
そんな増村の最高傑作は、はて、何だろう? ふとそんなことを考えてみたが、優劣をつけるには思い入れが邪魔をする。 よって最高傑作うんぬんはこの際どうでもよい。 ここではまず、紛れもない傑作 近松の名作の映画化「曾根崎心中」を取り上げてみたい。
この『バージンブルース』は こうしたバージンか非バージンかわからないような年頃の、 ちょっと素行のよろしくない女の子たちを主人公に据えた さすらいのロードムービーかと思いきや、 実は、これはたわいもない中年男のロマン、 いってみれば、妄想によって男の哀愁を掻き立てる そんな作品になっているのはざっと紹介した通り。 それを演じる中年男、平田自身が いたって「バージン脳」のダメ男であり、 困ったちゃんと結びついてしまうところが 同じ男としてはなんとも微笑ましいのである。
『白いリボン』『Amour』と 続けざまにパルムドールを受賞した実力者にもかかわらず、 それまであまり評判のよろしくなかった、 というと語弊があるが、 賛否両論の激しかったオーストリアの映画作家ミヒャエル・ハネケによる 『Amour (原題:愛、アムール)』には そのような前振りなど、何の意味も持たないほど、 久々にしばらく動けないほど、しびれのような感銘を受けてしまった。