赤い航路 1992 ロマン・ポランスキー映画・俳優

ポランスキー『赤い航路』をめぐって

男の愚かさと哀しさ、女のしたたかさと執拗さの交差するフィルム。 おまけに暴力と官能とが絶妙にしのぎを削りながら これでもかこれでもかと執拗に翻弄を繰り返す倒錯的復讐と性愛のドラマ、 そんなポランスキーの『赤い航路』にはやはりそそられるものがある。 一見すると、ブニュエルの遺作にも近い雰囲気を漂わせている。 そう、目の前の女をモノに出来ないブルジョワ男の話 『欲望の曖昧な対象』を思い浮かべているのだが、 こちら『赤い航路』の場合は、女をモノにしたは良いが そこから複雑な悲劇を抱え込む自称作家が語る痴情である。 どちらもいい歳をした中年男が若い美女に翻弄される、 という図式は共通項ではあるが、決定的な違いが両者にはある。 政治色がらみの皮肉というかブラックジョークで満そうとするブニュエル、 一方ポランスキーの場合は、もっとドロドロとした欲望の矛先が 他者に向けられるのだ、それもかなり陰湿に。 精神的な領域にまでズカズカ出入りしてくる話として、 複雑な心理をもった人間たちを登場させ交差させ煽る。 恨み、辛みとともに、人間の背徳性をひたすら掻き立て それを倒錯的に浮かび上がらせるのが半ば享楽であり、 次第に責任を他人に転嫁してゆくことに熱を注ぐという、 ポランスキーならではの嗜好性が如実に反映されている映画である。

赤い殺意 1964 今村昌平映画・俳優

今村昌平『赤い殺意』をめぐって

今村昌平の映画は絶えずどこか異様なまでに重い。 他の作家の重さとは常に一線を画す重力感があり、 観るのを一瞬躊躇するようなところがあるにも関わらず 見終わると、疲れと共にずしり見応えをも感じとっているのだ。 それゆえに好き嫌いがはっきり分かれるのかもしれない。 それでいてどこか、可笑しみのような、 どこかでクスッ、と緩ませるそんな場面が必ず挿入されている。 これは今村自身が呼んだように「重喜劇」と言うべきスタイルである。 藤原審爾の小説が下敷きになった『赤い殺意』では、 気怠さが状況に追いつかず、重力のみが覆い被さって、 半端なき熱量で身動きがとれない主人公がいる。 冒頭の蒸気機関車はいったい何の象徴だろうか? それがおいおいわかってくる。

トリコロール/赤の愛 1992 クシシュトフ・キエシロフスキ映画・俳優

キエシロフスキ『トリコロール/赤の愛』をめぐって  

キエシロフスキによるトリコロール三部作 その最終章を飾るのが「赤の愛」。 ここでは一度失った愛の形を取り戻す過程が描き出されている。 その色からも、“博愛”と言うテーマで描かれてはいるのだが、 ラストのサプライズシーンを含め、 遺作として全てを包み込むような集大成の思いが強く感じ取れる。

赤い砂漠 1965 ミケランジェロ・アントニオーニ映画・俳優

アントニオーニ『赤い砂漠』をめぐって 

モニカ・ヴィッティ演じるジュリアナは 裕福な家庭の人妻だが、精神に病を抱えていて のっけから、子供と連れ立って歩く途中に、 見知らぬ男の食べていたパンを買いとって 草陰で貪り食う、そんなちょっと異様なシーンから始まる。 夫は、交通事故によるノイローゼだと言っているが、 必ずしもそうではないということが次第にわかってゆく。 病院に入院していたのも、どうやら自殺未遂からのことで、 夫との間にも、すでにすれ違いの溝が深く刻まれているのだ。

赤い天使 1966 増村保造映画・俳優

増村保造『赤い天使』をめぐって

文字通り若尾文子扮する西さくらこそが「赤い天使」なのであるが、 彼女の場合は、ただ単に負傷兵の介護という枠に収まらず、 負傷した兵士の命をつなぎとめるために 手足を切断する際には、暴れ発狂する患者を抑える役回りはもちろん 挙げ句には、性的な処理までこなさねばならない。 おいおい、いやはややれやれである。 天使家業はラクではないのだ。 まさに身体を張ったその使命感には頭が下がる。 が、この映画が単に反戦映画の枠を超えている部分であり、 それを折れずに遂行する強さがどこまでも美しい。

四畳半襖の裏張り 1973 神代辰巳文学・作家・本

神代辰巳『四畳半襖の裏張り』をめぐって

春本風味を下敷きにしつつも、神代辰巳が 日活ロマンポルノの枠内でうまく撮り上げたこの作品、 そこに男と女の睦み事があっても、それだけじゃない。 観ればわかるが、猥雑とは似て非なる風情、情緒が漂うのだ。 本編は荷風の得意とした「入れ子細工」をとり、 旦那と芸者との“粋な”遊びを中心に 軍人と芸者との哀しき逢瀬、 老練と若い芸者の芸道をめぐるやりとりなどが 1時間強のなかに色とりどり詰め込まれている。

ロピュマガジン【ろぐでなし】vol.36 赤い誘惑 映画特集映画・俳優

ロピュマガジン【ろぐでなし】vol.36 アカにまみれた映画特集

タイトルに「赤」もしくはそれ相応の色を想起させる映画を 取り上げて、その映画自体についてあれやこれや書くだけのことである。 当然、各々の物語での「赤」の強度は違うし、趣も違う。 それは受け止める側の問題であり、 タイトルと作品の関連性に疑問を抱くのもある、 が、そこは無視して赤に宿る感性をなんとか引き出せればいいと思う次第だ

こちらあみ子 2022 森井勇佑映画・俳優

森井勇佑『こちらあみ子』をめぐって

そこで森井勇佑による『こちらあみ子』の話になるのだが、 こちらは紛れもなく傑作だった。 あみ子役の大沢一菜は実に強烈な個性の持ち主だ。 監督や周囲の思い入れもよくわかる。 しかし、ただ子役がいい映画というわけでもなく、 一本の映画としても、心に刺さるものがあった。 その意味では、冒頭の子役映画の罠にもってかれない映画だといえる。

さかなのこ 2022  沖田 修一映画・俳優

沖田修一『さかなのこ』をめぐって

とはいえ、この映画の真の魅力は、 そうした個性を重んじる「生き方」への提言であるとか 必ずしもジェンダーを超越した存在だとか そんなテーマ推しの映画ではないところにある。 つまりは、自然体なのだ。 確かに、のんが演じるミー坊は大の魚好き少年であり 背後にはそれを理解し、応援する母親の存在というものがあるにはあるが よくよくみていくと、それゆえ家庭というものが成立しなくなる、 そんな一面さえも出てくる映画として描かれている。