愛の亡霊 1978 大島渚映画・俳優

大島渚『愛の亡霊』をめぐって

『愛のコリーダ』の次に撮られた『愛の亡霊』もまた 一筋縄では通り過ぎようもない。 「官能の帝国」から、「情熱の帝国」へ。 引き続きアナトール・ドーモン出資アルゴスフィルム社による、日仏合作映画だ。 海外では、むしろ『愛の亡霊』の方が評価が高いという声さえ上がっているという。 それに同調するにやぶさかではない。 なるほど、スタッフは重複するが、トーンにはずいぶん開きがある。 単に姉妹作品、“二匹目のドジョウ”などでは断じてないのだ。

復讐するは我にあり 1978 今村昌平文学・作家・本

今村昌平『復讐するは我にあり』をめぐって

映画版『復讐するは我にあり』では、 緒形拳扮する榎津巌という殺人鬼が 実話を元に書かれた原作に基づき 別解釈を加えられ、映像化された作品だと断言できる。 原作は、丹念に事実を洗い出し、その被害者側の視点にたって この榎津巌という人間像をあぶり出そうとする話だったが、 ここではさらに、原作と映画はあきらかな別物、という視点にたって この問題作をみなおしてみた。

家族ゲーム 1983 森田芳光映画・俳優

森田芳光『家族ゲーム』をめぐって

正直なところ、森田芳光作品には 昔からまず好んで食指は動かないタイプなのだが 『家族ゲーム』の斬新な演出、そしてムードには 初めてみたときから刺激的で、 記憶から離れがたい確かな映画的感動をもらっている。 まさに、時代の空気と共に生きてきた人間を感心させるだけの説得力と 奇妙な共犯関係があり、 いわずとしれた共感が随所に盛り込まれている気がして 今尚実に刺激的であり、森田芳光自身を評価するに 十分な一本なのである。

切腹 1961 小林正樹映画・俳優

小林正樹『切腹』をめぐって

若き日に見たこの『切腹』には そのような人道的倫理の方に囚われていて 仲代演じる素浪人に、感情移入してみていたものだが 今はもう少し、引いた視線で物事を見ることができる。 その分で言うならば、この映画に正義はない。 何が正しく、間違っている、という絶対はない。 ただそこに、「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という 葉隠の精神があるとはいえ、 それが果たして美徳なのかどうか、 根源的問題に立ち返ってみる、という冷徹な視線が宿るのだ。

東京流れ者 1966 鈴木清順映画・俳優

鈴木清順『東京流れ者』をめぐって

多分にもれず、洗脳されているのには自覚がある。 頭の中で渡哲也が歌う「東京流れ者」がどうにも鳴りやまず、 口からもれなくフレーズが飛び出しては、ご機嫌に浸ってしまう自分がいる。 そりゃあ誰だってそうなりましょうよ? それが鈴木清順『東京流れ者』を見た後の 清順狂のザマよ、ってなもんである。 通常のヤクザ映画のように、肩で風を斬るなんざヤボ中のヤボ。 そんな単純なアホウドリは相手にしないぜ、などと息巻く。 ただただその快楽にひとりごちるわけなのさ、あはは

浮雲 1955 成瀬巳喜男映画・俳優

成瀬巳喜男『浮雲』をめぐって

不倫関係にかぎらず、多かれ少なかれ、 男女関係というものの行く末は こうした一瞬の輝き、一瞬のときめきを求めて たとえ、結果がわかっていても、その甘美さの前には抗えず、 逃れられない人間の業そのものなのかもしれない、と思う。 ただ『浮雲』では、その深い業へのカタルシスが、 刹那にもとめる激しい肉欲でも、 官能を貪ることで満たすことはできないのだ、という、 そんなメッセージのような気配をも同時に読み取りうるのである。 こんな恋愛映画が日本にあったのだ。 そこは、日本人だからこそ、 理解しうるであろう男と女の駆け引きだからこそ、 よりいっそ愛おしいく思うのかもしれない。

『近松物語』1954 溝口健二映画・俳優

溝口健二『近松物語』をめぐって

それほどのことまでをしでかしての危険な恋愛沙汰ゆえに この話は、当時の大衆の胸を打ったに相違なく、 当然、都の民衆たちの耳に入らぬ訳も無く それを西鶴の方は、この姦通譚を 男女の情愛のもつれに重きを置いたが、 近松は、むしろ悲哀としてとらえ 浄瑠璃にして、世評を博したのを下敷きにしたものを、 依田義賢がその両者の間をとって脚本を書いたのが この映画版『近松物語』である。

羅生門 1950 黒澤明文学・作家・本

黒澤明『羅生門』をめぐって

人間が抱え込んだ闇の深淵を解明しようとしても不毛だ。 そんな芥川の別の短編『藪の中』をモティーフにした世界を、 世界のクロサワが映画化した名作『羅生門』は やはり見応えがある力を持った映画である。 まずはセットの素晴らしさだけでゲイジュツ品。 そして、宮川一夫によるカメラワークの巧みさだけで一級品。 光の美しさの見事な造詣にうっとりさせられる。