映画・俳優

東京物語 1953 小津安二郎映画・俳優

小津安二郎『東京物語』をめぐって

何に対してなのか、わからない感情。 それはおそらく孤独を味わったことのあるものへの 共感なのかもしれない。 あるいは、物語に入れ込むことによるまなざしの同化であろうか、 失われたもの、失われつつあるものへの孤独な眼差し。 ひとりで生きてゆくことの厳格なたたずみに伏した涙を そこでそっと胸にしまいなおす行為の美しさ。 ぼくは久しぶりに味わった新たな『東京物語』の哀愁の前に 自分が失ってきたものの幻影を重ねているのだろうか?

はなればなれに 1964 ジャン=リュック・ゴダール映画・俳優

ジャン=リュック・ゴダール『はなればなれに』をめぐって

チンピラというにはあまりにもふざけすぎていて、 ギャングというにはつたなすぎる悪党ぶり・・・ いずれ、終幕は見えている。 欲しいものはなんなのか。金か女か友情か? それとも刹那の快楽か? うすっぺらいようでいて 実は絶妙な息とリズムでもって繰り広げられる、 男と男が一人の女を挟んで、トライアングルに揺れるどたばた劇。 『Bande A Part 邦題:はなればなれに』こそが JLG流アンチハリウッド、フィルムノワールの真髄ってやつか。

Paterson 2016 jim jarmusch映画・俳優

ジム・ジャームッシュ『パターソン』をめぐって

この『パターソン』と言う映画は これまでのスタイルに即した、ジャームッシュらしい作品で、 特に新しいスタイルなんてどこにもない。 なのに、とても新鮮で愛くるしく心地よい。 晩年に向かうにつれ、 同じようなテーマを繰り返し、 円熟の極みとしての映画にこだわった あの小津調の空気感にも通じる。 ただ、こちらもそれなりに歳をとって ものの見方にも微妙な変化があり そうしたこなれた見方、と言うのはあるのかもしれない。

ミリキタニの猫 2006 リンダ・ハッテンドーフアート・デザイン・写真

リンダ・ハッテンドーフ『ミリキタニの猫』をめぐって

ミリキタニことジミー・ツトム・ミリキタニ、 本名を三力谷勉(漢字で書くとなるほど納得する)といい、 カリフォルニア州サクラメントに生まれた日系人で 一度郷里日本の広島での生活を経由し、 いうなれば、帰米(キベイ)者として 「優れた日本の芸術を世界に紹介する」という大志により 再度海を渡った気骨ある人物である。 そのドキュメンタリー映画『ミリキタニの猫』が 多くの人の心を鷲掴みにした出来事となったのである。

Dries Van Noten 1958-サブカルチャー

『ドリス・ヴァン・ノッテン ファブリックと花を愛する男』をめぐって

そうした意識に徹頭徹尾基づいた美を創造するファッションデザイナー、 ベルギー、アントウェルペン出身 ドリス・ヴァン・ノッテンのドキュメンタリー映画 『ドリス・ヴァン・ノッテン ファブリックと花を愛する男』を観て なんと気高く、なんと美しいのだろうか、そう思った。 華やかな業界にありながらも、 地道で地味な佇まいで創造を重ねる深い精神性が宿っているのを感じ取る。 ファッションデザイナーだから、ではなく、その生き樣に共鳴するものがある。

Céline et Julie vont en bateau 1971 Jacques Rivette映画・俳優

ジャック・リヴェット『セリーヌとジュリーは舟で行く』をめぐって

そんなわけで『セリーヌとジュリーは舟で行く』をじっくり見返したところで、 観たいというより、自分の感性に近しい映画を 定期的に確認しておきたい、ということでして。 すでに数回目にしているというのに その期間があまりにも開いたおかげで(もう十年以上前だったけな) 記憶がはっきりしないもどかしさがあるのです。 もっとも、観た後でさえ、 内容や感想をうまく書けるかどうか、怪しいもので・・・ とはいえ、間違いなく生涯のベストテンには入れたい映画なのです。 中毒性のある偏愛性のつよい映画なのだからしょうがありません。 いやはや、麻薬のように面白い映画なんだな。

杉葉子 1928-2019サブカルチャー

気になる叔母さんを偲んで

杉葉子という女優さんがいた。 数年前に亡くなったのを知っている。 何か書こうと考えてみたのだが、 残念ながら、この女優さんはちょっと地味すぎて ヒロインとしてはほとんど印象がない。 原作石坂洋次郎、今井正監督の 『青い山脈』のヒロインというのが もっとも輝かしい経歴ではあるが それについて、書ける記憶がほぼない。 映画について思い入れがない以上、書く意味もない。 けれども、個人的に引っかかっているのは確かである。 というのも、成瀬巳喜男作品での杉葉子をみているからである。