アラン・レネ『二十四時間の情事』をめぐって
僕は観た、この『二十四時間の情事』をすべて観た。 何年にもわたり、くりかえしくりかえし観てきた。 いや、結局のところ、僕は何も見ていないのを実感するばかりである。 そう、この『二十四時間の情事』、この映画ですら、 何も見てはいないのだという事実に絶望する。 だが、唯一、そこに男と女の出会いがある。 ただ一日だけ、それを忘れて愛し合う二人がいる。
僕は観た、この『二十四時間の情事』をすべて観た。 何年にもわたり、くりかえしくりかえし観てきた。 いや、結局のところ、僕は何も見ていないのを実感するばかりである。 そう、この『二十四時間の情事』、この映画ですら、 何も見てはいないのだという事実に絶望する。 だが、唯一、そこに男と女の出会いがある。 ただ一日だけ、それを忘れて愛し合う二人がいる。
夏という季節は、恋の季節だとかなんだかんだ、 かんたんに片付けるが、人間を勘違いさせる空気に満ち満ちた、 罠がはりめぐらされた季節だともいえる。 そんな真夏に、サバービアのプール付きの家をめぐって、 世にも不思議な、というか、ちょっと恐ろしいような 勘違い男の非情の物語が提示されてゆく映画がある。 1968年のフランク・ペリーによる『泳ぐひと』の話である。
ウキクサ、その響き通りの水中の浮遊植物は 俳句では、夏の季語として知られるように、 春にぷっかりと現れ、秋にはさらりと消え、 その後水底でもごもごと越冬するといわれている。 昔から、浮草稼業とはよくいったもので、 よりどころなく、一つの場所に落ち着かない職業にたとえられるが、 そんなタイトルの映画がある。 小津安二郎、1959年の『浮草』である。
唐突にツァイ・ミンリャンの『西瓜』を観る。 観たくなったのだ。 この作品について、なんと言えばいいのか。 まさに、上手く説明出来る映画ではないのだが、 AV男優をめぐるラブストーリー、 (全然知らないが、日本人のAV女優も出演している) といってしまえばラクなのではあるが、 そんな簡単なシロモノではなく、やはり難解ではある。
そんな幸福な夏に、 アニエス・ヴァルダのことをふと考え そして彼女の作品がみたくなる瞬間が襲ってくる。 それは、彼女の作品にある一定の季節感が伴っているからだといえるのだが、 1965年のその名も『幸福』などは、 まさにまばゆい夏の光線に満ちた映画として 脳裏に焼き付いている作品である。
台風が来るたびに、なぜだかこの映画のことを考える。 相米慎二の傑作『台風クラブ』のことだ。 いわば定番といっていい流れなのだが、といって、 なんどもなんども繰り返し見た映画というわけでもない。 なので、前回いつ見たのかさえ思い出せないのだが 今回の大きな台風を機会に、見直してみたくなった。
つまらない論争に巻き込まれ、時間を消費するなら、 一本の未知で、輝きにみちた宝石のような映画を求めて モニター越しに夢見ることをやめない知性があっていい。 ここに、夏をめぐる10本の良質な作品の前に立って、 いつものように、考察してみたい。
『青い青い海』では大嵐のカスピ海で難破した船に搭乗していた 大の仲良しである二人の若者ユフスとアリョーシャが主人公なのだが、 たどり着いた島で、綺麗な若い娘マーシャに恋をし 言うなれば恋敵になってしまう話を書いた。 そこからがまさにバルネットの本領発揮の喜劇が カスピ海の大時化の海を舞台に、 実に爽やかに、溌剌かつダイナミックに展開されてゆく。
デュラス恐るべし。 とはいうものの、 実際の今、外は鳥のさえずりと、 普遍の夜明けを前に、このインディア・ソングは 真夜中、こうして、魅入られたように、 人知れず、時をえらんでみるべくして 撮られているように思え、 仮に目の前にガンジスが広がっていたならば、 そのまま、きっと現実に背を向け、入水するがごとく、 そのなかへ消え失せてしまうのではないか、とふと思ったりする
とりあえず、バカンス気分に身を乗り出すようにして、 ロメールの中でも最も軽妙な作品の一つに数えたい 『レネットとミラベル/四つの冒険』の話でもしよう。