映画・俳優

切腹 1961 小林正樹映画・俳優

小林正樹『切腹』をめぐって

若き日に見たこの『切腹』には そのような人道的倫理の方に囚われていて 仲代演じる素浪人に、感情移入してみていたものだが 今はもう少し、引いた視線で物事を見ることができる。 その分で言うならば、この映画に正義はない。 何が正しく、間違っている、という絶対はない。 ただそこに、「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という 葉隠の精神があるとはいえ、 それが果たして美徳なのかどうか、 根源的問題に立ち返ってみる、という冷徹な視線が宿るのだ。

東京流れ者 1966 鈴木清順映画・俳優

鈴木清順『東京流れ者』をめぐって

多分にもれず、洗脳されているのには自覚がある。 頭の中で渡哲也が歌う「東京流れ者」がどうにも鳴りやまず、 口からもれなくフレーズが飛び出しては、ご機嫌に浸ってしまう自分がいる。 そりゃあ誰だってそうなりましょうよ? それが鈴木清順『東京流れ者』を見た後の 清順狂のザマよ、ってなもんである。 通常のヤクザ映画のように、肩で風を斬るなんざヤボ中のヤボ。 そんな単純なアホウドリは相手にしないぜ、などと息巻く。 ただただその快楽にひとりごちるわけなのさ、あはは

浮雲 1955 成瀬巳喜男映画・俳優

成瀬巳喜男『浮雲』をめぐって

不倫関係にかぎらず、多かれ少なかれ、 男女関係というものの行く末は こうした一瞬の輝き、一瞬のときめきを求めて たとえ、結果がわかっていても、その甘美さの前には抗えず、 逃れられない人間の業そのものなのかもしれない、と思う。 ただ『浮雲』では、その深い業へのカタルシスが、 刹那にもとめる激しい肉欲でも、 官能を貪ることで満たすことはできないのだ、という、 そんなメッセージのような気配をも同時に読み取りうるのである。 こんな恋愛映画が日本にあったのだ。 そこは、日本人だからこそ、 理解しうるであろう男と女の駆け引きだからこそ、 よりいっそ愛おしいく思うのかもしれない。

『近松物語』1954 溝口健二映画・俳優

溝口健二『近松物語』をめぐって

それほどのことまでをしでかしての危険な恋愛沙汰ゆえに この話は、当時の大衆の胸を打ったに相違なく、 当然、都の民衆たちの耳に入らぬ訳も無く それを西鶴の方は、この姦通譚を 男女の情愛のもつれに重きを置いたが、 近松は、むしろ悲哀としてとらえ 浄瑠璃にして、世評を博したのを下敷きにしたものを、 依田義賢がその両者の間をとって脚本を書いたのが この映画版『近松物語』である。

羅生門 1950 黒澤明文学・作家・本

黒澤明『羅生門』をめぐって

人間が抱え込んだ闇の深淵を解明しようとしても不毛だ。 そんな芥川の別の短編『藪の中』をモティーフにした世界を、 世界のクロサワが映画化した名作『羅生門』は やはり見応えがある力を持った映画である。 まずはセットの素晴らしさだけでゲイジュツ品。 そして、宮川一夫によるカメラワークの巧みさだけで一級品。 光の美しさの見事な造詣にうっとりさせられる。

東京物語 1953 小津安二郎映画・俳優

小津安二郎『東京物語』をめぐって

何に対してなのか、わからない感情。 それはおそらく孤独を味わったことのあるものへの 共感なのかもしれない。 あるいは、物語に入れ込むことによるまなざしの同化であろうか、 失われたもの、失われつつあるものへの孤独な眼差し。 ひとりで生きてゆくことの厳格なたたずみに伏した涙を そこでそっと胸にしまいなおす行為の美しさ。 ぼくは久しぶりに味わった新たな『東京物語』の哀愁の前に 自分が失ってきたものの幻影を重ねているのだろうか?