サミュエル・ベンシェトリ『アスファルト』をめぐって
フランス郊外の老朽団地(アパートメント)に住む住人たちの群像劇。 オムニバス形式ではなく、それぞれ独立した3つの話で構成されているが うまく時間軸が交差して、ひとつの作品として描かれるその空気感は ずばり、失われた人間たちのふれあいとその「温かみ」である。
フランス郊外の老朽団地(アパートメント)に住む住人たちの群像劇。 オムニバス形式ではなく、それぞれ独立した3つの話で構成されているが うまく時間軸が交差して、ひとつの作品として描かれるその空気感は ずばり、失われた人間たちのふれあいとその「温かみ」である。
少ないセリフ、感情を排した演技、そして絶妙な音楽センスの3点セット。 その中で主役を演じるのがカティ・オウティネンだ、 今日まで長年カウリスマキ組のミューズを張っている女優。 はっきり言って、美人でもなきゃ、愛嬌のかけらもない。 言うなれば薄幸の女そのものであり、 少女というには随分籐が立っている女(それでもまだ若い)だが カウリスマキ映画には以降欠かせない女優となる。
何も起きないから退屈ではない。 むしろ何も起きないからこそ、生まれる空気というものがある。 ぼくたちはそんな日常に生きている。 ジム・ジャームッシュの出世作『ストレンジャーザンパラダイス』はまさにそんな魅力に満ちている映画だ。
内観する存在物としてのボウイ デヴィッド・ボウイ。あの巨大な星が視界から消えてブラックスターとなりて、はや6年の歳月が流れている、この事実の前に、この頃なんとなく無頓着になりつつある。というのも、あのボウイが今仮に生きて...
Who is FOU FOU? いまでこそ、世界をまたにかけ活躍する日本人アーティストなど珍しくもなんともなく、誇らしい限りだが二十世紀初頭となると、せいぜい早川雪舟かこれから書く藤田嗣治ぐらいしか思い浮かばない。 そん...
「お金よりも励ましが大事なんです」 映画『モンパルナスの灯』のラストで、 モディことモディリアーニの絵を買おうとする リノ・ヴァンチュラ扮する画商に向けて アヌク・エーメ扮する妻ジャンヌがそういって、 嬉しさを顔いっぱいに滲ませるシーン。 何とも切ないシーンである。
海岸で、10人の女に糾弾され海に放りこまれるのは あくまでマゾヒスティックな男にとっての悪夢だが、 ここでの黒いシルエットのモダニズムこそが 『黒い十人の女』の真のかっこよさに通底している。 岸恵子のクールビューティーを見よ。 山本富士子の聡明なる悪女っぷりをはじめとして、 その他、岸田今日子、中村玉緒、宮城まり子と 色とりどりの個性的な女優陣が囲んで、 実にスリリングな愛憎劇を展開しているが、 最後の最後まで、軽さの美学に貫かれているところが 今日、再評価され人気も高い理由なのかもしれない。
『愛のコリーダ』の次に撮られた『愛の亡霊』もまた 一筋縄では通り過ぎようもない。 「官能の帝国」から、「情熱の帝国」へ。 引き続きアナトール・ドーモン出資アルゴスフィルム社による、日仏合作映画だ。 海外では、むしろ『愛の亡霊』の方が評価が高いという声さえ上がっているという。 それに同調するにやぶさかではない。 なるほど、スタッフは重複するが、トーンにはずいぶん開きがある。 単に姉妹作品、“二匹目のドジョウ”などでは断じてないのだ。
映画版『復讐するは我にあり』では、 緒形拳扮する榎津巌という殺人鬼が 実話を元に書かれた原作に基づき 別解釈を加えられ、映像化された作品だと断言できる。 原作は、丹念に事実を洗い出し、その被害者側の視点にたって この榎津巌という人間像をあぶり出そうとする話だったが、 ここではさらに、原作と映画はあきらかな別物、という視点にたって この問題作をみなおしてみた。
正直なところ、森田芳光作品には 昔からまず好んで食指は動かないタイプなのだが 『家族ゲーム』の斬新な演出、そしてムードには 初めてみたときから刺激的で、 記憶から離れがたい確かな映画的感動をもらっている。 まさに、時代の空気と共に生きてきた人間を感心させるだけの説得力と 奇妙な共犯関係があり、 いわずとしれた共感が随所に盛り込まれている気がして 今尚実に刺激的であり、森田芳光自身を評価するに 十分な一本なのである。