オーソン・ウェルズ『審判』を視る
カフカの『審判』は、ただの悲劇ではない。 それは元より、「自分の手には負えない運命」を前にして、 人がどれだけ可笑しく、そして惨めに振る舞えるか ウェルズは、その本質を見抜き、 一層鋭い「笑い」の棘を与えてみごとに映画化したのである。 勝負はついた。 ただし、可もなく不可もなく、というところだ。
カフカの『審判』は、ただの悲劇ではない。 それは元より、「自分の手には負えない運命」を前にして、 人がどれだけ可笑しく、そして惨めに振る舞えるか ウェルズは、その本質を見抜き、 一層鋭い「笑い」の棘を与えてみごとに映画化したのである。 勝負はついた。 ただし、可もなく不可もなく、というところだ。
昔に比べて読書量が減っているのは間違いない。 本が好きで、文学が好きで、なにより活字大好き人間ではあるのだが、 そのインプットにかける時間がたりないと自覚する。 モノとしての本そのものへの関心が薄らいでおり、 本を買うことも滅多になくなっていることもある。 とはいえ、ネットに転がるテキストに目を通し、 こうしたブログにしろ、記事を書く機会もあるし、その意欲もちゃんとある。 こうした矛盾をかかえつつ、老後は、気長に読書三昧で、 といかないところに、情報社会、多様なメディアに囲まれる現代のジレンマがあるのだと思う今日この頃である。
この声はデュラス自身のものである。 映像にあるのは、そのフィルムにある身体性、 つまりは言葉に託された愛だけである。 ブラームスのピアノ曲を伴って妹、ビュル・オジエが、そこにいる。 そして、もうひとり、兄であるデュラスの恋人ヤン・アンドレア。 そこにいるのはこの二人しかいない。 何一つ発しない登場人物に全てを託せてしまうのだ。 これは映画だろうか? 文学なのだろうか? なんという共犯関係なのだろうか? テクストの快楽、映画の快楽との共鳴がそこにはある。 確かにある。
ジョナサン・グレイザー監督による映画『関心領域』は、 アウシュヴィッツ強制収容所の隣に暮らすナチス高官一家の“日常”を描くという、 一見しただけではそのショッキングさよりも、静かな作品としての印象が先にある。 しかし、その沈黙のなかには、叫びよりも激しい告発がひそんでいる。 映画史上、最も過酷な問いを最も平静なかたちで突きつけた本作は、 単なる過去への凝視ではなく、現代における無関心の構造を解き明かす寓話として 読まれうるべき作品として、強烈なメッセージを発している。
原作は未読だが、瀬尾まいこ『夜明けのすべて』、小説の映画化である。 NHKの朝ドラ「カムカムエヴリバディ」で夫婦を演じた二人、 松村北斗と上白石萌音による主人公の男女山添孝俊と藤沢美紗は、 それぞれパニック障害とPMS(月経前症候群)を抱えている。 内容は、心の奥底に秘めた「生きづらさ」とどう向き合うか、 対人との向き合い方や、コミュニケーションのとり方についての 深い考察映画とも言えるだろうか。 そんな二人が、とある職場で出会い、絡んで、 いったいどんな物語が語られるというのか?というと そこにとくに事件性のようなものもなく、 定番の恋愛絡みのストーリー、というわけでもない。 お互い感情におぼれることなく、かといって、 よそよそしくならず、ぎこちなさを避けるように、 その境界線を、うまく練り歩きながら描いている点に共感を覚える映画だった。
視覚の刺客、ウェスティバルなムービーショー ウェス・アンダーソンの映画『アステロイド・シティ』を見て、いやあ、面白かった、あなたも一度見てみて!などと、はたして軽々しく勧めていいものだろうか?もちろん、かまいはしない。な...
エマ・ストーンが演じるベラ・バクスターは、 死体の身体に胎児の脳を移植された再構成された、 いうなれば人の形を残した怪物だ。 その設定だけを見れば、ネオフランケンシュタイン的な話だが、 本作が行き着く先は単なるホラーでもSFでもなく、 むしろ、快楽、自由、知、そして他者との関係性を通して、 自己が自己であるための条件を問いなおす"存在論的ラブストーリーを生き 目覚めたひとりの女性の物語である
原作朝井リョウによる岸善幸の映画『正欲』では 5人の登場人物が「なにをもって正解とすべきか」「マイノリティとは何か?」 といういかにも現代社会が抱える問いをめぐって 複数の視点が静かに交差する群像劇を描いた映画になっている。 ここには声高に何かを訴えたり、観客の感情を煽るような派手な演出はなく、 それなのに、観終わったあとには、胸の奥に何かがずっと残る。 何が正しくて、何が間違っているのか? その問いを、言葉ではなく映像と沈黙で投げかけてくる。
短くなれば、その分余計なものは削ぎ落とさねばならない。 その意味で、映画『宮松と山下』は見事なまでにセリフが少ない。 よって、85分というのは出色の長さゆえ、安心できる。 それだけで見たくなってくるというものだ。 もちろん、それは単に後付けの口実にすぎないのだが、 その分、実際、この映画にはなにかとそそられるところが多い。 まず、説明的な映画ではなく、過剰なシーンも無い。 そして、示唆的であるということだ。
そのセルフリメイク版は、その名のごとく、一本の直線ではなく、 くねり、迷い、絡まりながら進む不可解な道のりを辿る映画であり、 不条理なドラマである。 1998年のオリジナル版は、ジャンル映画の装いをまとった、 玉石混交のVシネの自由さと制約の狭間に 生理的な不快感をともなう構造的サスペンスを持ち込んだ。 2024年のリメイク版は、その構造さえ疑いながらも、 舞台をパリに移しての、新たな喪失と空白を埋める物語を演出している。