映画・俳優

吾輩は猫である 1975 市川崑文学・作家・本

市川崑『吾輩は猫である』を視る

市川崑による映画版においても、その構造は崩されてはいない。 仲代達矢演じる苦沙弥先生は、滑稽ながらも品を保ち、 どこか近代に取り残された者の影を帯びている。 映像では、猫の語りがナレーションとして再現されることで、 その"語る存在の不在性"がより強調されることになる。 語り手がスクリーンにいない、それはまさに、 スターンが『トリストラム・シャンディ』で試みたような、 語り手の亡霊化というわけである。 映画における猫の視線は、時に観客の視線と重なり、 物語そのものが一種の"劇中劇"として立ち上がるのだ。

冷血 1967 リチャード・ブルックス文学・作家・本

リチャード・ブルックス『冷血』を視る

そうした文学的傑作から、リチャード・ブルックスよる映画版をみると 「忠実な映像化」という枠組みからは微妙に逸脱して 新しい倫理観と表現手法に挑戦しているのがわかる。 被写体との距離を取るカメラ、断片的な記憶の再構成、 そして観客を不快にさせることでしか語れない真実が暴き出される。 同時にこの映画は、 文学と映画という表現形式の本質的な違いを浮かび上がらせている。 つまり、事実をどのように"物語る"か、その構造の差異が興味深い。 とはいえ、動機そのものは映画にも読み取れない闇として描かれていた。

双生児ーGEMINI 1999 塚本晋也文学・作家・本

塚本晋也『双生児ーGEMINIー』を視る

江戸川乱歩の短編「双生児」は 〜ある死刑囚が教誨師にうちあけた話〜、とあるように、 死刑囚である語り手の“私”の告白が ある種、後戻りのできない自己の牢獄としての種明かしに従事し まさに、乱歩の真髄である語ることを通して死に臨む。 そんな告白に読者が迷宮へと導かれる文学性に終始している。 その一方で、サスペンス、ホラー、幻想譚の境界を曖昧にしながら、 「自己と他者」「理性と本能」「愛と憎しみ」といった 二項対立を映像と物語の両面からえぐり出す、 異様にして耽美な作品が、改めて再構築されたのが 塚本晋也の映画『双生児 -GEMINI-』である。

陽炎座 1981 鈴木清順文学・作家・本

鈴木清順『陽炎座』を視る

時は大正、1926年の東京。 鈴木清順による『陽炎座』の世界に、一度踏み込むと そうやすやすと抜けられそうもない。 まさに、映画六道めぐり、 その夢なる景色が、単にまどろみにとどまらず まるで白昼、真夏の地面に揺れる蜃気楼のように、 こちらの意識をからかい、惑わせ、弄んだかと思うと、 甘美に絡み合っては、いつしかまた儚くすり抜けていく。 登場人物たちはまさに、生きては死に、死んでも生き続けるような そんな妖うさのなかを行き来戻りつする住人たちばかり。 劇中、大楠道代演じる玉脇の妻品子の言葉に 「夢というのはなぜ覚めるのでしょう? 一生覚めなければ、夢は夢でなくなるのに」とあるが、 まさに、このセリフがこの映画の核になっている。 そう、冒頭に引用したこの品子が劇中懐紙にしたためた、 小野小町の歌そのものではないか。

審判 1963 オーソン・ウェルズ文学・作家・本

オーソン・ウェルズ『審判』を視る

カフカの『審判』は、ただの悲劇ではない。 それは元より、「自分の手には負えない運命」を前にして、 人がどれだけ可笑しく、そして惨めに振る舞えるか ウェルズは、その本質を見抜き、 一層鋭い「笑い」の棘を与えてみごとに映画化したのである。 勝負はついた。 ただし、可もなく不可もなく、というところだ。

ロピュマガジン【ろぐでなし】vol.42 スクリーンのなかの文学。視覚のアバンチュール。文学・作家・本

ロピュマガジン【ろぐでなし】vol.42 スクリーンのなかの文学、視覚のアバンチュール。

昔に比べて読書量が減っているのは間違いない。 本が好きで、文学が好きで、なにより活字大好き人間ではあるのだが、 そのインプットにかける時間がたりないと自覚する。 モノとしての本そのものへの関心が薄らいでおり、 本を買うことも滅多になくなっていることもある。 とはいえ、ネットに転がるテキストに目を通し、 こうしたブログにしろ、記事を書く機会もあるし、その意欲もちゃんとある。 こうした矛盾をかかえつつ、老後は、気長に読書三昧で、 といかないところに、情報社会、多様なメディアに囲まれる現代のジレンマがあるのだと思う今日この頃である。

『マルグリット・デュラスのアガタ』1981 マルグリット・デュラス映画・俳優

マルグリット・デュラス『マルグリット・デュラスのアガタ』を視る

この声はデュラス自身のものである。 映像にあるのは、そのフィルムにある身体性、 つまりは言葉に託された愛だけである。 ブラームスのピアノ曲を伴って妹、ビュル・オジエが、そこにいる。 そして、もうひとり、兄であるデュラスの恋人ヤン・アンドレア。 そこにいるのはこの二人しかいない。 何一つ発しない登場人物に全てを託せてしまうのだ。 これは映画だろうか? 文学なのだろうか? なんという共犯関係なのだろうか? テクストの快楽、映画の快楽との共鳴がそこにはある。 確かにある。

関心領域 2023 ジョナサン・グレイザー映画・俳優

ジョナサン・グレイザー『関心領域』をめぐって

ジョナサン・グレイザー監督による映画『関心領域』は、 アウシュヴィッツ強制収容所の隣に暮らすナチス高官一家の“日常”を描くという、 一見しただけではそのショッキングさよりも、静かな作品としての印象が先にある。 しかし、その沈黙のなかには、叫びよりも激しい告発がひそんでいる。 映画史上、最も過酷な問いを最も平静なかたちで突きつけた本作は、 単なる過去への凝視ではなく、現代における無関心の構造を解き明かす寓話として 読まれうるべき作品として、強烈なメッセージを発している。

夜明けのすべて 2023 三宅唱映画・俳優

三宅唱『夜明けのすべて』をめぐって

原作は未読だが、瀬尾まいこ『夜明けのすべて』、小説の映画化である。 NHKの朝ドラ「カムカムエヴリバディ」で夫婦を演じた二人、 松村北斗と上白石萌音による主人公の男女山添孝俊と藤沢美紗は、 それぞれパニック障害とPMS(月経前症候群)を抱えている。 内容は、心の奥底に秘めた「生きづらさ」とどう向き合うか、 対人との向き合い方や、コミュニケーションのとり方についての 深い考察映画とも言えるだろうか。 そんな二人が、とある職場で出会い、絡んで、 いったいどんな物語が語られるというのか?というと そこにとくに事件性のようなものもなく、 定番の恋愛絡みのストーリー、というわけでもない。 お互い感情におぼれることなく、かといって、 よそよそしくならず、ぎこちなさを避けるように、 その境界線を、うまく練り歩きながら描いている点に共感を覚える映画だった。