映画・俳優

『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』1969 石井輝男サブカルチャー

石井輝男『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』をめぐって

キング・オブ・カルトこと、我らの石井輝男。 そこから輩出される名だたるカルトムービーの中でも 「江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間」と聞けば 泣く子も黙る、とりわけカルトキングな作品である。 我が愛すべきB級映画は、まずはこの作品から始めるとする。 これも確か、大井武蔵野館の名物プログラムだったと記憶する。 エログロ、狂気、ナンセンス、アングラ、タブー、シュール。 ありとあらゆる禁断世界から攻めたててくる。 日本映画史に燦然と輝くカルト映画の金字塔だ。 もっとも、全てがラストシーンに集約されてしまう映画であることは間違いない。

ロピュマガジン【ろぐでなし】vol.37 どこまでも軽ろやかに語りたいB級アラカルト映画特集映画・俳優

ロピュマガジン【ろぐでなし】vol.37 どこまでも軽ろやかに語りたいB級アラカルト映画特集

なかにはカルトオブキングな作品、 つまりその筋では誰もが知る人気カルトもあれば それってそこまでカルトじゃないじゃん、というケースもあるかもしれない。 いずれにせよ、独断と偏見に満ちたB級映画を あまり小難しくならず、できるかぎり、軽やかに語ってみたい。 B九の醍醐味は、理屈では計り知れないのだ。 とはいえ、相手はくせ者だ、ならずものである。 そんな簡単に扱えるような代物じゃない。 えてして、こちらが過剰に反応してしまって、 あることないこと、語り尽くしてしまうことになるかもしれないが そこはひとつ、ご愛敬として勘弁願おう。

赤ひげ 1965 黒澤明映画・俳優

黒澤明『赤ひげ 』をめぐって

黒澤作品のなかでも、人気、評価の高い1本である『赤ひげ』は この年(1965年)の日本映画の興行収入ランキングで堂々第1位を記録している。 モノクロ作品にもかかわらず、髭を赤く染めてまで挑んだという 世界のミフネ演ずる赤ひげ先生を筆頭に、 藤原釜足、志村喬、左卜全、土屋嘉男、山崎努など 馴染みの黒澤組俳優たちがしっかり脇を固め、 そこへ若き医師役に若大将こと加山雄三を中心に その両親には、ちょっとした顔出し程度とはいえ 田中絹代に笠智衆まで贅沢にあてがわれている。 大根で頭を殴られるほどの強欲非道な淫売屋女将に杉村春子、 小津や溝口作品では見ることにない体当たりの狂女に香川京子など、 黒澤作品には珍しく、色とりどりの女たちによる映画でもある。

0課の女 赤い手錠 1974 野田幸男映画・俳優

野田幸男『0課の女 赤い手錠』をめぐって

赤い手帳に、赤い拳銃、そして長い鎖付きの赤い手錠(ワッパ)、 赤、赤、赤のオンパレード。 まさに劇画の世界である。 赤いドレスを纏って、男の欲望の前におもちゃにされても 決して取り乱さない真っ赤な唇の女デカ、杉本美樹こと0課の女澪(みお)。 そんな女刑事、いるわけないっしょ? と言われてもしょうがないくらい、この漫画のような世界の女だ。 それもそのはずで、あの篠原とおる原作の劇画からの映画化だから といってしまえばまかり通る。 そう、あの『女囚さそり』シリーズを描いた人といえば、なるほど と思う人コアなファンもいるかもしれない。 脚本も『女囚さそり』と同じく神波史男&松田寛夫のコンビ。 監督は『不良番長シリーズ』で名を馳せた野田幸男だ。

Don’t Look now 1973 NICOLAS ROEG映画・俳優

ニコラス・ローグ『赤い影』をめぐって

『赤い影』と言うのは邦題ならではのもので、 配給会社がつけたイメージタイトルなのだが 映画の内容からすれば、実に示唆的で、的を射たタイトルともいえる。 この「赤」は、ここでは明確に 血の色(死)に直結しているアイコンそのもので いたるところに散りばめられているからいやがおうにも目を惹く。 溺死した娘も、殺人鬼の小人も、纏っているが真っ赤な洋服であり 兄弟ジョニーの自転車も赤(そういえ帽子も赤)、 霊能者は赤いベストを着ているし、 寝ていた司祭がなにやらふと目を覚まし見つめるのも赤い蝋燭である。 主人公は赤い柄のマフラーを身につけ、その妻は赤いブーツを履き、 葬儀では霊柩船に赤い花が艶やかに飾られているのをみても 明らかに赤という色にメッセージが込められているのだ。

Le Circle Rouge 1970 ジャン=ピエール・メルヴィル映画・俳優

ジャン=ピエール・メルヴィル『仁義』をめぐって

メルヴィルの『仁義』が、どうして赤いシリーズなのか? それは原題が『Le Circle Rouge』、直訳すれば「赤い輪」だからである。 単にそれだけのことだが、肝心のその赤い輪とはなんぞや、というと 映画の冒頭のクレジットで、メルヴィルはこう引用する。 「人はそれと知らず再会するとき、各々に何が起ころうが、異なる道を進もうが、赤い輪の中で出会うことが必然である」 これはラーマクリシュナが聞いたブッダの言葉とされている。 ようするに、人は知らず知らずに出会ったとしても 一度運命の輪のなかに入ってしまえば、 その繋がり(縁)からはけして逃れられないのだと。

赤い航路 1992 ロマン・ポランスキー映画・俳優

ポランスキー『赤い航路』をめぐって

男の愚かさと哀しさ、女のしたたかさと執拗さの交差するフィルム。 おまけに暴力と官能とが絶妙にしのぎを削りながら これでもかこれでもかと執拗に翻弄を繰り返す倒錯的復讐と性愛のドラマ、 そんなポランスキーの『赤い航路』にはやはりそそられるものがある。 一見すると、ブニュエルの遺作にも近い雰囲気を漂わせている。 そう、目の前の女をモノに出来ないブルジョワ男の話 『欲望の曖昧な対象』を思い浮かべているのだが、 こちら『赤い航路』の場合は、女をモノにしたは良いが そこから複雑な悲劇を抱え込む自称作家が語る痴情である。 どちらもいい歳をした中年男が若い美女に翻弄される、 という図式は共通項ではあるが、決定的な違いが両者にはある。 政治色がらみの皮肉というかブラックジョークで満そうとするブニュエル、 一方ポランスキーの場合は、もっとドロドロとした欲望の矛先が 他者に向けられるのだ、それもかなり陰湿に。 精神的な領域にまでズカズカ出入りしてくる話として、 複雑な心理をもった人間たちを登場させ交差させ煽る。 恨み、辛みとともに、人間の背徳性をひたすら掻き立て それを倒錯的に浮かび上がらせるのが半ば享楽であり、 次第に責任を他人に転嫁してゆくことに熱を注ぐという、 ポランスキーならではの嗜好性が如実に反映されている映画である。

赤い殺意 1964 今村昌平映画・俳優

今村昌平『赤い殺意』をめぐって

今村昌平の映画は絶えずどこか異様なまでに重い。 他の作家の重さとは常に一線を画す重力感があり、 観るのを一瞬躊躇するようなところがあるにも関わらず 見終わると、疲れと共にずしり見応えをも感じとっているのだ。 それゆえに好き嫌いがはっきり分かれるのかもしれない。 それでいてどこか、可笑しみのような、 どこかでクスッ、と緩ませるそんな場面が必ず挿入されている。 これは今村自身が呼んだように「重喜劇」と言うべきスタイルである。 藤原審爾の小説が下敷きになった『赤い殺意』では、 気怠さが状況に追いつかず、重力のみが覆い被さって、 半端なき熱量で身動きがとれない主人公がいる。 冒頭の蒸気機関車はいったい何の象徴だろうか? それがおいおいわかってくる。

トリコロール/赤の愛 1992 クシシュトフ・キエシロフスキ映画・俳優

キエシロフスキ『トリコロール/赤の愛』をめぐって  

キエシロフスキによるトリコロール三部作 その最終章を飾るのが「赤の愛」。 ここでは一度失った愛の形を取り戻す過程が描き出されている。 その色からも、“博愛”と言うテーマで描かれてはいるのだが、 ラストのサプライズシーンを含め、 遺作として全てを包み込むような集大成の思いが強く感じ取れる。

赤い砂漠 1965 ミケランジェロ・アントニオーニ映画・俳優

アントニオーニ『赤い砂漠』をめぐって 

モニカ・ヴィッティ演じるジュリアナは 裕福な家庭の人妻だが、精神に病を抱えていて のっけから、子供と連れ立って歩く途中に、 見知らぬ男の食べていたパンを買いとって 草陰で貪り食う、そんなちょっと異様なシーンから始まる。 夫は、交通事故によるノイローゼだと言っているが、 必ずしもそうではないということが次第にわかってゆく。 病院に入院していたのも、どうやら自殺未遂からのことで、 夫との間にも、すでにすれ違いの溝が深く刻まれているのだ。