映画・俳優

The Straight Story 1999 David Lynch映画・俳優

デヴィッド・リンチ 『ストレイト・ストーリー』をめぐって

デヴィッド・リンチの名を聞くだけで、 ぼくらは漆黒の闇に沈む悪夢のような世界を思い浮かべてしまうのだ。 『イレイザーヘッド』の胎児的恐怖にはじまり 『ブルーベルベット』の倒錯したフェティッシュ、 『エレファントマン』の残酷で聖なる奇形児の宿命を、 あるいは『マルホランド・ドライブ』の多層的幻影を思い出すからだが、 現実の裏側に潜む狂気を覗き続けた男、それがリンチという作家である。 しかし、そのリンチが、あえてそれまでの暗黒世界を封印し、 ひとりの老人の穏やかな旅を描いた映画がある。 1999年の『ストレイト・ストーリー』。 これは、上記の作品にはない、 リンチという作家の“優しさの核”をむき出しにした、 実に稀有な一本であるといえるだろう。 正直に告白すれば、映画としては 自分にとってリンチはこの一本でも十分なのだ。

シュヴァルの理想宮 ある郵便配達員の夢 2018 ニルス・タヴェルニエアート・デザイン・写真

ニルス・タヴェルニエ『シュヴァルの理想宮 ある郵便配達員の夢』をめぐって

風の吹くフランス南東部、ドローム県オートリーヴ村に、 かつて、ひとりの郵便配達員が築いた奇跡がある。 その男とはフェルディナン・シュヴァルという、 十九世紀末、文字どおり“石を積む”ことで夢を現実に変えた男だ。 彼の建てた理想宮(Palais Idéal)が、建築である前に いまも一篇の詩としてそびえ立っていることに驚きを禁じ得ない。 それは、彼の人生そのものが凝縮されたひとつの祈りとして、 愛、誠実さ、そして永遠への憧憬の結晶を打ち立てた物語である。

ふたりのベロニカ 1991 クシシュトフ・キェシロフスキ映画・俳優

クシシュトフ・キェシロフスキ『ふたりのベロニカ』をめぐって

クシシュトフ・キェシロフスキによる『ふたりのベロニカ』には ポーランドとフランス、この二拠点それぞれに生きる若い女性がいる。 ふたりは面と向かい合うことはないが、見えない糸で繋がっている。 しかも、同じ時刻に生まれ、名前も見た目も瓜二つ。 そんな透明な糸が、互いに知らぬ者同士を天上から操るかのように、 運命の鼓動を、どこかで虫の知らせのように鳴らしはじめる。 そんな偶然を、声ではなく、光でもなく、 まずは音楽によって雄弁に語り始める、異様なまでに繊細な物語にせまってみよう。

ギルバート・グレイプ 1993 ラッセ・ハルストレム映画・俳優

ラッセ・ハルストレム『ギルバート・グレイプ』をめぐって

家族の数だけ“家”の物語がある。 誰もが抱える、身近で大切な共同体である家族が 愛ゆえに人を見守り、互いに支え合うという神話も どこか、希薄なまでの薄っぺらさばかり露呈されがちな現代社会において、 ラッセ・ハルストレムがハリウッドで手がけた最初の作品 『ギルバート・グレイプ(原題:What's eating Gilbert Grape)』には その綾を縫いながらも、家族の絆、つながりが描き出されている。 そこには痛みを通して、前に進まずにはいかない物語が ある種の通過儀礼として描き出されている。

ツィゴイネルワイゼン 1980 鈴木清順映画・俳優

鈴木清順『ツィゴイネルワイゼン』をめぐって

今日のようなストーミング社会はいったんおいておいて もしもこの世に、映画館なる至宝の闇空間がなかったなら そこに、見せもの小屋のような存在がかえって繁盛するのかもしれない。 妖しげで希少価値のある場所。 そこに見合うプログラムだが、なにげなく禁断の匂いが立ち上りさえれば、 甘い樹液を求む昆虫たちのように、自ずと人は集まってくるかもしれない。 その際、真っ先にこの鈴木清順の出し物こそが 生き生きとその臨場感を醸し出してくれるであろうことはお約束できる。 実際に、プロデューサーのふとした思いつきで 巨大なテント会場での公開となったのが『ツィゴイネルワイゼン』なのである。 配給業者も興行者もいない、文字通りの芝居じみた興行こそが この映画の本質には相応しいのだ。

『ラムの大通り』 1971 ロベール・アンリコ映画・俳優

ロベール・アンリコ『ラムの大通り』をめぐって

粋な映画とは、このことをいうのだと言わんばかりの作品がある。 ロベール・アンリコ監督による『ラムの大通り』のことだ。 ベティちゃんこと、かのベティ・ブープ(元祖BB?)のモデルの1人 1920年代当時の“セックスシンボル”であった女優 クララ・ボウをイメージしたというのだが、 こちらもそのセックスシンボルの系譜で一世風靡した、 フランスの恋多き女優ブリジット・バルドー(こちらもBB)が リノ・ヴェンチュラを虜にしてしまう銀幕の女優として登場するのだ。

ローラ 1961 ジャック・ドゥミ映画・俳優

ジャック・ドゥミ『ローラ』をめぐって

石畳、路面電車、遊園地、霧にけぶる港、そして米兵水夫。 フランスの西、港町ナントの灰色の空の下、 どこからともなく潮騒の匂いを含んだ風が 石畳をなでるように吹き抜ける。 故郷を舞台にした、ジャック・ドゥミの処女作『ローラ』は、 そんな静かな風景に、アイリスインで幕を開けアイリスアウトで終わる。 これにわざわざヌーベルバーグの作品などと焚き付けたくはない、 そんな昔気質の哀愁がある。 人生の喧噪をひとまず忘れ、少し離れた場所、人々の生活のすぐ隣に、 確かに存在する夢と記憶のかけらが顔をのぞかせる瞬間の愛おしさ。 そこにドゥミは、少年のように、カメラというレンズ越しに、 ぼくらの見るべき“行間”をそっと提示してくれるのだ。

チャールズ・ロートン『狩人の夜』をめぐって映画・俳優

チャールズ・ロートン『狩人の夜』をめぐって

100年を超える映画史において、ただ一作をもってのみ カルトな、しかも忘れがたい名作を残した映画作家が少なからずいる。 中には、未なお埋もれている発掘されざる作家もいるかもしれない中で、 チャールズ・ロートンによる『狩人の夜』は、 初公開当時は不評で、まさにそうした呪われた系譜にある、 陽の目をみなかった作品である。

ルキーノ・ヴィスコンティ『ベリッシマ」をめぐって映画・俳優

ルキーノ・ヴィスコンティ『ベリッシマ』をめぐって

今も昔も世に言うステージママという種族は どの国にもいるものらしい。 我が子可愛いや可愛いや我が子、その思いは人情としては理解できるが なかには自分のエゴからくる過剰なまでの力の入れようを これ見よがしにみせつけられるとなると、 さすがに引いてしまうのもまた人情というもの。 第一、子供が可哀想である。 大人のおもちゃではないのだ。 ヴィスコンティの『ベリッシマ』では そのステージママたる母親マッダレーナを ロッセリーニ「無防備都市」や「人間の声」などで知られる イタリアを代表する女優あのアンナ・マニャーニが演じている。

ロピュマガジン【ろぐでなし】vol.45 空想巡回映画館 ただいま上映中映画・俳優

ロピュマガジン【ろぐでなし】vol.45 空想巡回映画館 ただいま上映中

やはり、秋はいい。いいのだ、秋。 そんなことを静かに噛み締めながらも、 やはり、モノには道理、そして移ろいがあり、 それを感じることは幸せなことであり、 それを感じ取れる日本という国が年々愛おしくなっている。 幸い、ようやく、不穏な空気、気配が開けそうな世の夜明けを横目に 希望のわく、そんな思いと、少し憂いを滲ませるという相反する 複雑な思いもかくさずに、サウダージな詩的なひとときを 言葉に託したいと思う。