映画・俳優

秋が来るとき 2024 フランソワ・オゾン映画・俳優

フランソワ・オゾン『秋が来るとき』をめぐって

秋は何かが実るときであり、同時に消えてゆく季節である 何かが移り変わろうとするには、ちょうどいい頃合いである。 それは、静かに朽ちゆくものの中から、 なおも命を繋ぎ止めながら、 なにかを育くもうとするタイミングというべきかもしれない。 フランソワ・オゾンの新作『秋が来るとき』は、 そんな“生の発酵”のような時間を描いてはいるのだが、 ひとくせふたくせもあるオゾン映画が 平穏に、ただ事で過ぎゆくとは思えない。 とにもかくにも、オゾンは期待を裏切らない。

《Return to Reason/リターン・トゥ・リーズン》 film by MAY RAY Music by SQÜRLアート・デザイン・写真

マン・レイのサイレント映画をめぐって

かれこれ、一世紀も前の人だが、ぼくはマン・レイのもつ自由さ、 永遠のアマチュアリズム、実験精神と遊び心を併せもった姿勢に 時代を超えて、すごく親近感をもってきた。 そのあたりは、“生粋の駄々っ子”たるマン・レイと賞賛しつつ、 すでに「マン・レイという芸術家」でその想いを綴った。 ここでは、そのマン・レイが残したサイレント映画を取り上げてみることにする。 それらの短編を、あのジム・ジャームッシュが 『RETURN TO REASON/リターン・トゥ・リーズン』として ジャームッシュ作品のプロデューサーでもあるカーター・ローガンとの2人組 音楽ユニット、スクワール(SQÜRL)が音をつけたプロジェクト映画だ。

デジャヴュ 1987 ダニエル・シュミット映画・俳優

ダニエル・シュミット『デ・ジャ・ヴュ』をめぐって

かつて見た夢の残響、それがデジャヴュの正体だとしたら、 どこで、いつ、その光景を見たのかが思い出せない。 ダニエル・シュミットが1990年に発表した幻想的な映画 『デ・ジャ・ヴュ(原題:JENATSCH』からは、 まるで記憶の深層に落ちていった過去の反響のように、 観る者の時間感覚を溶かし、困惑させると同時に 目を閉じてなお匂い立つ気配だけを漂わせている。 その驚きから、人は、ルネ・マグリットの絵画の風景にでもトリップしたかのような、 日常からの逸脱を体験するにちがいないのだ。

「落穂拾い」2000 アニエス・ヴァルダ映画・俳優

アニエス・ヴァルダ『落穂拾い』をめぐって

ヴァルダの『落穂拾い』は、19世紀の絵画の静けさを、 21世紀のドキュメンタリーという運動に置き換えた作品である。 彼女はデジタルカメラを手に、農村から都市へ 軽さを纏ってフランス各地を旅することになる。 畑で拾われぬまま腐っていく山積みのジャガイモ、 あるいは、市場に捨てられた野菜や果物、 都市の廃棄物の山を掘り返す人々に、カメラは寄り添う事になる。 ヴァルダはその現実を、糾弾ではなく、淡々と、しかし深く見つめる。 それは捨てられたものを通し、真理を探すことなのだ。

サブカルチャー

山田太一『岸辺のアルバム』をめぐって

むろん、ドラマならなんでもいいというわけではない。 こちらは、今から半世紀も前のテレビドラマだというのに、 なぜか、どこかで見た風景が映し出されていて、なにかと心に刺さる。 じつに近しく、内容は実に骨太である。 のちに流行るトレンディドラマと呼ばれるものとは一線を画す内容の、 脚本家山田太一の傑作『岸辺のアルバム』という作品について触れてみよう。

彼岸花 1958 小津安二郎映画・俳優

小津安二郎『彼岸花』をめぐって

『彼岸花』には、別段、それまでの小津スタイル、 そのテーマと違いがあるわけではない。 とはいえ、つとに洗練された印象がするのは、 あらゆるところに無駄がなく、 何より、嫌味なく、すべてが完璧に流れてゆく熟練の間合いで 究極に、形式と情感の間にみごとな融合がなされるという意味では、 小津映画のひとつの完成形を見る思いがするのだ。 どの作品も甲乙つけ難い魅力がある小津映画のなかでも、 この『彼岸花』がなかんずく大好きなのである。

浜辺のサヌカイト 2023 土取利行映画・俳優

土取利行『浜辺のサヌカイト』をめぐって

そんな石に耳を澄ませる文学者がいたとすれば、 その響きを実際に奏でる音楽家がいる。 香川県多度津町に生まれた土取利行である。 彼はミルフォード・グレイブスに師事したフリージャズのドラマーであり、 デレク・ベイリーやスティーブ・レイシーらと共演するかたわら、 同時に世界の民族音楽を歩いたフィールドワーカーであり、 日本近代の大衆歌を掘り起こした研究者でもあるのだ。 だがその活動の中でとりわけ特異なのは、 サヌカイトという不思議な石との出会いだろう。

お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました 2015 遠藤ミチロウ映画・俳優

遠藤ミチロウ『お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました』をめぐって

その昔、日本のパンクシーン、伝説的存在であった あの「スターリン」を率いていた遠藤ミチロウが、 還暦こそは超えたものの、古希の壁はついぞ超えられず、 昨年ガンで亡くなったことはすでに知っていたのだが バンドを離れてアコースティックギター一本担いで、 アンプラグド・パンクロッカーとして、 全国を津々浦々を行脚する旅を続けるソロ活動に勤しんでいたことに、 今更ながらではあるが、さほど気にも留めずいたことが、 なんだかちょっと罪深いことのように思えてきた。 一回は足を運んでおけばよかったと、後悔の念がこみ上げてくるのだ。

John Lydon映画・俳優

タバート・フィーラー『The Public Image Is Rotten』をめぐって

パンク、ニューウェブ以降のミュージシャン、 つまり、リアルタイムで聴いてきたミュージシャンの中で、 ジョン・ライドン(ジョニー・ロットン)ほど魅力のある、 同時に波乱万丈で、社会や時代に爪痕を残してきた存在はいないと思う。 兎にも角にも、人騒がせでありながらも、カリスマ性を誇り 時にピエロのように、時にコメディアンのように 何より皮肉やで、野心家で、それでいて究極のエンターテイナーとして われわれを楽しませてくれるアーティストはそうはいない。 彼は口先だけではない、ロック界の真のイノベーターだったのだ。

NICO Photo by Fiona Adams/Redferns映画・俳優

スザンナ・ニッキアレッリ『Nico, 1988』をめぐって

ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの歌姫で知られる伝説のシンガー、 ニコについての伝記映画、スザンナ・ニッキアレッリによる『Nico, 1988』を観た。 アラン・ドロンとの間に生まれた一粒種の息子アリと、 休暇で訪れていたスペインのイビサ島で自転車から転倒し頭部を強打し 49歳でその生涯を終えたのが、1988年7月18日のことだった。 映画は、ニコの晩年の二年間をめぐるドキュメントとして その痛ましい姿にスポットライトが浴びる格好で描かれている。