石川慶『ある男』をめぐって
石川慶による『ある男』という映画がある。 原作平野啓一郎による文芸作品実写版だ。 こちら原作は未読ゆえ、その比較は出来ないが、 社会問題をも持ち込んだ硬質なテーマを 洗練された語り口で見せるに長けた映画で、かなり心を掴まれてしまった。 精鋭の俳優たちの演技も文句のつけようもない。 ここでは窪田正孝演じる谷口大祐ことXの存在感が目を惹く。
石川慶による『ある男』という映画がある。 原作平野啓一郎による文芸作品実写版だ。 こちら原作は未読ゆえ、その比較は出来ないが、 社会問題をも持ち込んだ硬質なテーマを 洗練された語り口で見せるに長けた映画で、かなり心を掴まれてしまった。 精鋭の俳優たちの演技も文句のつけようもない。 ここでは窪田正孝演じる谷口大祐ことXの存在感が目を惹く。
水上勉の『土を喰らう日々』というエッセイがベースである。 そのエッセイは、若き水上が禅寺で覚えた精進料理を紹介していて 単なる料理本というわけではない。 その想いはおそらくは中江裕司にもあり、 脚本はむしろオリジナルに仕上がっている点でユニークである。 水上勉という作家を特に意識したことはなかったが、 少年期に禅寺で修行体験を元にした川島雄三『雁の寺』を初め、 吉村公三郎『越前竹人形』、はたまた内田吐夢『飢餓海峡』などで多少は触れている。 この作家の食を通したどこか仏教的な生き様に、共感できる自分がいる。 食がテーマとはいえ、これはある種、人生訓でもあるからだ。
文学と映画というのは、基本、似て非なるものであるが 映像化されても、その中身が害われず むしろ、視覚的な魅力が加味されて新たなる傑作然として 今なお記憶に刻み付けられているのが『砂の女』であったが、 その作品を映画化した勅使河原宏によって またしてもこの『他人の顔』も原作の妙味を残しつつも、 映像言語としての面白さを引き出し、 新たな発見を見せてくれた作品として、忘れがたい記憶を刻んでいる。 いずれも安部公房の小説があらかじめ映像を意識して書かれたように思えるし、そこを加味し脚本をアレンジしているのもミソだ。
成瀬といえば『浮雲』が代表作にして最高傑作との評価はあるが 掘ってみれば、なかなか良作が他にも目白押しの監督で、 個人個人の好き嫌いをためらわずにいえば この『晩菊』なんかもあの『浮雲』に 負けじ劣らぬ傑作然としているのがわかる。
仏ヌーヴォーロマンの旗手、アラン・ロブ=グリエによる メタフィクション映画の傑作『ヨーロッパ横断特急』。 どこかフィルムノワール風、どこかサスペンスを漂わせるが ロブ=グリエのメタフィクションは、もとより筋に重きがあるわけじゃない。 あたかも映画に遊ばれているような感じに陥って そこがわかっていないと映像の世迷い人になってしまう感じだ。 騙されることなかれ。
心のチャカに背を向け釈迦の背を追う、あの頃我が師シッダールタよ 先日、実家にもどったとき、ふと昔の本棚を眺めていたら、ヘッセの文庫本が目にとびこんできてそれをひょいと手にとってパラパラ眺めてそのままカバンにいれてもどって...
だざい文体 太宰治の「ヴィヨンの妻」という短編が昔っから好きなのですが、その割には、十代のころの曖昧な記憶しか残っておらず、ふと寂しい思いから、もう一度読み返してみたくなり、借りてこうようと図書館へいったのはいいのですが...
他人の不幸は蜜の味 私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。 『放浪記』林芙美子 それまで幻想文学や、不条理文学ばかりに傾倒していた自分がリアリズムに根差した林芙美子の小説を読むようになったのは映画『放浪記』をみて...
とりわけ、太郎は、母かの子の多大なる影響を受けている。 かの子は童女のようでいて、潔癖なまでに純粋を貫くがゆえに 周りの情緒をも狂わせる女の狂気を孕んで生きた。 本人は情愛の化身のように小説に身をぶつけ、 時には母として、時には恋人、あるいは娘、妹・・・ 眷族の垣根を超えて交わる魂の交歓を求め、 激しく、そして誰よりも太郎を愛した。 太郎もまた、芸術に挑むのと変わりないエネルギーを この母に傾注した。 もっとも、太郎はそれを対等な関係であり 通俗的な母と子の因果関係の馴れ合いではないと強調する。
そういうわけで ぼくはお茶目な人、茶目肌娘が大好きです。 あなたは日本男児、はたまた妖怪か? 飛行機を、天体を、そしてA感覚V感覚 そして少年をこよなく愛した この足穂先生のことを僕は夜空を眺めるたびに思い出すのです。