文学・作家・本

双生児ーGEMINI 1999 塚本晋也文学・作家・本

塚本晋也『双生児ーGEMINIー』を視る

江戸川乱歩の短編「双生児」は 〜ある死刑囚が教誨師にうちあけた話〜、とあるように、 死刑囚である語り手の“私”の告白が ある種、後戻りのできない自己の牢獄としての種明かしに従事し まさに、乱歩の真髄である語ることを通して死に臨む。 そんな告白に読者が迷宮へと導かれる文学性に終始している。 その一方で、サスペンス、ホラー、幻想譚の境界を曖昧にしながら、 「自己と他者」「理性と本能」「愛と憎しみ」といった 二項対立を映像と物語の両面からえぐり出す、 異様にして耽美な作品が、改めて再構築されたのが 塚本晋也の映画『双生児 -GEMINI-』である。

陽炎座 1981 鈴木清順文学・作家・本

鈴木清順『陽炎座』を視る

時は大正、1926年の東京。 鈴木清順による『陽炎座』の世界に、一度踏み込むと そうやすやすと抜けられそうもない。 まさに、映画六道めぐり、 その夢なる景色が、単にまどろみにとどまらず まるで白昼、真夏の地面に揺れる蜃気楼のように、 こちらの意識をからかい、惑わせ、弄んだかと思うと、 甘美に絡み合っては、いつしかまた儚くすり抜けていく。 登場人物たちはまさに、生きては死に、死んでも生き続けるような そんな妖うさのなかを行き来戻りつする住人たちばかり。 劇中、大楠道代演じる玉脇の妻品子の言葉に 「夢というのはなぜ覚めるのでしょう? 一生覚めなければ、夢は夢でなくなるのに」とあるが、 まさに、このセリフがこの映画の核になっている。 そう、冒頭に引用したこの品子が劇中懐紙にしたためた、 小野小町の歌そのものではないか。

審判 1963 オーソン・ウェルズ文学・作家・本

オーソン・ウェルズ『審判』を視る

カフカの『審判』は、ただの悲劇ではない。 それは元より、「自分の手には負えない運命」を前にして、 人がどれだけ可笑しく、そして惨めに振る舞えるか ウェルズは、その本質を見抜き、 一層鋭い「笑い」の棘を与えてみごとに映画化したのである。 勝負はついた。 ただし、可もなく不可もなく、というところだ。

ロピュマガジン【ろぐでなし】vol.42 スクリーンのなかの文学。視覚のアバンチュール。文学・作家・本

ロピュマガジン【ろぐでなし】vol.42 スクリーンのなかの文学、視覚のアバンチュール。

昔に比べて読書量が減っているのは間違いない。 本が好きで、文学が好きで、なにより活字大好き人間ではあるのだが、 そのインプットにかける時間がたりないと自覚する。 モノとしての本そのものへの関心が薄らいでおり、 本を買うことも滅多になくなっていることもある。 とはいえ、ネットに転がるテキストに目を通し、 こうしたブログにしろ、記事を書く機会もあるし、その意欲もちゃんとある。 こうした矛盾をかかえつつ、老後は、気長に読書三昧で、 といかないところに、情報社会、多様なメディアに囲まれる現代のジレンマがあるのだと思う今日この頃である。

リスボン特急 1972 ジャン=ピエール・メルヴィル文学・作家・本

ジャン=ピエール・メルヴィル『リスボン特急』をめぐって

傑作『サムライ』を覆う渋いブルーを彷彿とさせるかのように この『リスボン特急』のオープニングの銀行襲撃の際にも その同じ気配を漂わせるこのメルヴィルブルーのただならぬ気配に、 この映画もまた、遺作にして傑作へと導びかれるのか、と期待に胸を膨らませるも、 残念ながら、この映画はそれまでのメルヴィルらしいキレが不足していることに 次第にトーンダウンしてゆく。 ある種の失望を覚えながらも、こうして追悼の意を示すが如く 諦観せざるをえない思いから綴っている。

『去年マリエンバートで』 1961 アラン・レネ文学・作家・本

アラン・レネ『去年マリエンバートで』をめぐって

監督は『ヒロシマモナムール』のアラン・レネ。 キャメラはその時と同じ、サシャ・ヴェルニ。 脚本はヌーヴォーロマンの旗手アラン・ロブ=グリエ。 監督と脚本家、この二人のアランは いみじくもともに38にして出会い、 アンチロマン、アンチシネマの共犯関係を結ぶことになる。 映画史に一石を投じた作品として 色褪せぬ記憶のなかにとどまり続けるだろう。 またしても、永遠に眼差しに安らぎなど訪れぬ迷宮のなかで ただならぬひとときの夢を観るのだった。

四畳半襖の裏張り 1973 神代辰巳文学・作家・本

神代辰巳『四畳半襖の裏張り』をめぐって

春本風味を下敷きにしつつも、神代辰巳が 日活ロマンポルノの枠内でうまく撮り上げたこの作品、 そこに男と女の睦み事があっても、それだけじゃない。 観ればわかるが、猥雑とは似て非なる風情、情緒が漂うのだ。 本編は荷風の得意とした「入れ子細工」をとり、 旦那と芸者との“粋な”遊びを中心に 軍人と芸者との哀しき逢瀬、 老練と若い芸者の芸道をめぐるやりとりなどが 1時間強のなかに色とりどり詰め込まれている。

ある男 2022 石川慶文学・作家・本

石川慶『ある男』をめぐって

石川慶による『ある男』という映画がある。 原作平野啓一郎による文芸作品実写版だ。 こちら原作は未読ゆえ、その比較は出来ないが、 社会問題をも持ち込んだ硬質なテーマを 洗練された語り口で見せるに長けた映画で、かなり心を掴まれてしまった。 精鋭の俳優たちの演技も文句のつけようもない。 ここでは窪田正孝演じる谷口大祐ことXの存在感が目を惹く。

土を喰らう十二ヵ月 2022 中江裕司文学・作家・本

中江裕司『土を喰らう十二ヵ月』をめぐって

水上勉の『土を喰らう日々』というエッセイがベースである。 そのエッセイは、若き水上が禅寺で覚えた精進料理を紹介していて 単なる料理本というわけではない。 その想いはおそらくは中江裕司にもあり、 脚本はむしろオリジナルに仕上がっている点でユニークである。 水上勉という作家を特に意識したことはなかったが、 少年期に禅寺で修行体験を元にした川島雄三『雁の寺』を初め、 吉村公三郎『越前竹人形』、はたまた内田吐夢『飢餓海峡』などで多少は触れている。 この作家の食を通したどこか仏教的な生き様に、共感できる自分がいる。 食がテーマとはいえ、これはある種、人生訓でもあるからだ。