文学と音楽をめぐる調べ(後半)
が、そんなジレンマを抱えながら、ここでは、あえて、詩を音楽と共存させる試みに寄り添ってみたい。文学性からひとまず離れてみて、音楽ありきから、言葉ありきへ回帰し、最終的には完全にポエジー空間に身を委ねる試みだ。
が、そんなジレンマを抱えながら、ここでは、あえて、詩を音楽と共存させる試みに寄り添ってみたい。文学性からひとまず離れてみて、音楽ありきから、言葉ありきへ回帰し、最終的には完全にポエジー空間に身を委ねる試みだ。
本はいつだって、我々にもミュージシャンにも、 インスピレーションの源であり続ける。 中には、自分で文学作品を書くミュージシャンだっているし、 その詞の世界は文学以上に難解である場合もある。 音と言葉の共鳴と共存。それが文学という名の洗礼を浴びて、 よりいっそう豊かに響くのだ。 そうした側面を吟味しながら音楽を聞けば、 また違った音楽の魅力にたどり着けるかもしれない。
YOU TUBE上に、生前の安部公房の公演の記録テープが残されており 『箱男』の創作エピソードが語られている。 それを拝聴していると、 箱をかぶった浮浪者の姿を目撃した作家安部公房の頭の中には まだ理路も主題もなかったのがよくわかる。 安部は、この視覚的衝撃を「気味の悪い存在」として自分の中に取り込み、 それを引き延ばし、概念化していくのだが、 その過程が容易ではなかったことは、要した5年の歳月が証明している。
コクトーは文学史的にも映画史的にも、 はっきりとした位置づけの難しい作家だった。 本人は、詩人の血の下に、あらゆる創造メディアを駆使しながら、 詩の世界に戯れ、その世界で才能を発揮し、 今のマルチクリエーターの走りとしての認識も高い。 ある意味、属性なき作家として、その名を刻んだ自由の人だった。 『恐るべき子供たち』には、その奔放な男遍歴から毒好み、 そして生涯抱えていた死の観念といった禁断の世界の片鱗が コクトーの美学として随所に貫かれている作品だ。
♪ チャカポコ、チャカポコ……どこからともなく響いてくるあの音。 聞こえますか? 精神病棟の白い廊下。 鏡に映る「自分」らしき他人。 見えますか? そして唐突に始まる、演説のような講義、 反復されるセリフ、次第に歪んでいく時空と論理……。 ようこそ、松本俊夫監督の実験映画『ドグラ・マグラ』(1988年)へ。
かねてから、この三島の異端の寓話に惹かれていたという、 吉田大八監督が2017年に映像化したこの作品は、 原作が抱えていた“思想の空白”に、 「エンタメSF」という軽やかな皮を被せてながら、 一篇の不思議な寓話として新たに再生させた。 ここでは、原作と映画のあいだに潜む“三島由紀夫の亡霊”を、 そっと呼び出すとすれば、、 登場人物たちが見上げる空の意味も、UFOに乗り込んだ大杉の思いも どこかで共鳴するに値するものだと思えるかもしれない。
市川崑による映画版においても、その構造は崩されてはいない。 仲代達矢演じる苦沙弥先生は、滑稽ながらも品を保ち、 どこか近代に取り残された者の影を帯びている。 映像では、猫の語りがナレーションとして再現されることで、 その"語る存在の不在性"がより強調されることになる。 語り手がスクリーンにいない、それはまさに、 スターンが『トリストラム・シャンディ』で試みたような、 語り手の亡霊化というわけである。 映画における猫の視線は、時に観客の視線と重なり、 物語そのものが一種の"劇中劇"として立ち上がるのだ。
そうした文学的傑作から、リチャード・ブルックスよる映画版をみると 「忠実な映像化」という枠組みからは微妙に逸脱して 新しい倫理観と表現手法に挑戦しているのがわかる。 被写体との距離を取るカメラ、断片的な記憶の再構成、 そして観客を不快にさせることでしか語れない真実が暴き出される。 同時にこの映画は、 文学と映画という表現形式の本質的な違いを浮かび上がらせている。 つまり、事実をどのように"物語る"か、その構造の差異が興味深い。 とはいえ、動機そのものは映画にも読み取れない闇として描かれていた。
江戸川乱歩の短編「双生児」は 〜ある死刑囚が教誨師にうちあけた話〜、とあるように、 死刑囚である語り手の“私”の告白が ある種、後戻りのできない自己の牢獄としての種明かしに従事し まさに、乱歩の真髄である語ることを通して死に臨む。 そんな告白に読者が迷宮へと導かれる文学性に終始している。 その一方で、サスペンス、ホラー、幻想譚の境界を曖昧にしながら、 「自己と他者」「理性と本能」「愛と憎しみ」といった 二項対立を映像と物語の両面からえぐり出す、 異様にして耽美な作品が、改めて再構築されたのが 塚本晋也の映画『双生児 -GEMINI-』である。
時は大正、1926年の東京。 鈴木清順による『陽炎座』の世界に、一度踏み込むと そうやすやすと抜けられそうもない。 まさに、映画六道めぐり、 その夢なる景色が、単にまどろみにとどまらず まるで白昼、真夏の地面に揺れる蜃気楼のように、 こちらの意識をからかい、惑わせ、弄んだかと思うと、 甘美に絡み合っては、いつしかまた儚くすり抜けていく。 登場人物たちはまさに、生きては死に、死んでも生き続けるような そんな妖うさのなかを行き来戻りつする住人たちばかり。 劇中、大楠道代演じる玉脇の妻品子の言葉に 「夢というのはなぜ覚めるのでしょう? 一生覚めなければ、夢は夢でなくなるのに」とあるが、 まさに、このセリフがこの映画の核になっている。 そう、冒頭に引用したこの品子が劇中懐紙にしたためた、 小野小町の歌そのものではないか。