「異端の奇才 ビアズリー展」のあとに
改めて、残されたビアズリーの写真をみると、 どこか、退廃に浸る悪魔的な匂いがしてくる。 が、若くして自らの死を予感していたビアズリーは、 人生の終盤になってカトリックに改宗し、 死の間際では、ペンではなく十字架を握っていたのだという。 神の啓示からか、実際に後期の絵にはその毒気が抜け落ちてゆく。 とはいえ、禁じられた図像は語り続ける。 「芸術は死ぬが、死が芸術になるときがある」のだと。
改めて、残されたビアズリーの写真をみると、 どこか、退廃に浸る悪魔的な匂いがしてくる。 が、若くして自らの死を予感していたビアズリーは、 人生の終盤になってカトリックに改宗し、 死の間際では、ペンではなく十字架を握っていたのだという。 神の啓示からか、実際に後期の絵にはその毒気が抜け落ちてゆく。 とはいえ、禁じられた図像は語り続ける。 「芸術は死ぬが、死が芸術になるときがある」のだと。
一般的には、シュルレアリスムの先駆者たる幻想画家だが、 晩年になって至った新境地によって パステルを使用した艶やかな色彩の絵画で、ようやく世間からもみとめられ、 ここ日本でも、比較的人気のある画家として、その扱いを受けてきた。 とりわけ、生涯にわたって描き続けた花のモティーフは 陽的なルドンの評価を決定づけるまでに人気がある。
何の根拠もない魂の導き。 それはどこでもない、だれのものでもない ただ自分の心の中でのみで起こることなのだ。 そんなおり、20世紀初頭に活動したスウェーデンの女性画家 ヒルマ・アフ・クリントの展覧会に足を運んだ。 文字通り、なにかに導かれるように、その絵と出会ったのである。 我々の前に、100年遅れでやってきたというのに、 なぜか現代的なモダニズムの洗礼を受けるかのような不思議な新鮮さ。 およそ、この世の時間感覚では量れない奥行きがある。 館内を目一杯に使う巨大なタブローの展示から、 身近で、どこかで発見したような資料のような絵まで、 その絵のレンジは実に様々で、魅力的に思えた。
東京ステーションギャラリーでの 『生誕120年 宮脇綾子の芸術 見た、切った、貼った』展を観てきたのだが、 予想以上に見応えのある素敵な展覧会だった。 東京ステーションギャラリーならではの渋いチョイスといえる。 むき出しの煉瓦がいかにも手作業の工芸にフィットする。 それを加味して、タイムリーな展覧会だった。 アップリケというと、子どものときに、 お母さんが子供服に動物や花なんかを縫い付けたりするものだから どこか可愛いイメージがあるのだが、 宮脇綾子という人の場合は、母親目線というよりは主婦目線。 野菜や魚といった日常の食材や自然からモティーフを得てフォルムを決定し 趣のある着物地なんかを使って彩ってゆく作家である。 本人の言葉を引用すれば、観察者の視点を素直に反映する。 まずはそこからだ。
そして、美術界の叡智。 ゾフィー・トイバー=アルプの言葉は、絵画でも彫刻でも、建築装飾でも織物でも、 ゾフィーの手を通して、この世に現れた“かたち”の数々を思い起こさせる。 あの少し緊張感を孕んだ幾何学的構成、色彩の静けさ。 均衡とリズムがまるで呼吸のように織り込まれた作品の前に立つと、 彼女の言葉が、ひとつの呟きのように耳に響いてくる。 祈りに似た創作態度とでもいうべきか。 まるで、生活そのものを詩にしようとする意志のような波動がそこにはあった。
ジュルジュ・デ・キリコという画家の不思議な世界は その奇妙な遠近感と、唐突なモティーフの登場などから、 いわゆる形而上学的絵画などと言われているが シュルレアリストをはじめとした前衛画家たちの作風の中でも とりわけ異質な情緒を掻き立てる画家だと、長年理解してきた。 伝統と革新が同居するという、なにやら、迷宮に足を踏み入れる怖さも手伝って キリコの絵は、あのマグリットの明らかな挑発的絵画とは趣きがちがう、 みるものに、沈黙を余儀なくさせるだけの威風を堂々漂わせている。
今、ちまたで浮世絵にスポットライト、との声が聞こえてくる。 大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」の影響があるとかないとか。 多少世代差もあるだろうが、 ある程度、一般教養としてなら、 まず北斎の名を知らぬ日本人などそういないだろうし、 そうなると、『東海道五十三次』の広重あたりだって含むはずである。 確かに河鍋暁斎や月岡芳年あたりになるとマ二アックなのはわかる。 国宝酒井抱一や尾形光琳などは少し渋すぎるとしても 昨今では、、若冲人気は高いところだし、 なら、その師匠格の歌川国芳あたりはどうか?
この展覧会では、こちらベルギーの画家、ジャン=ミッシェル・フォロンの世界が 記号が単に道標ではなく、夢の風向きを指し示していたのを確認できる。 目的地のない旅、目的さえ失って、なおも進みつづける旅人にとっての道標。 きっと、この展覧会に足を運ぶ人であり、私自身さえも誘われる先にあるもの、 個々思いは違えど、人類全体で進むべき道は共通だ。 フォロンの世界の魅力はそんなところにある。
陽光に満ちたプールサイド、水平に伸びる白い縁石、切り取られた空の青。 デイヴィッド・ホックニーの絵画を初めて目にしたとき、 多くの人がその明るさに目を奪われることになる。 まるで「幸福」の色を抽出したかのようなその画面は、 見る者を瞬時に惹きつけるだろう。 それは、ある種キュビズムの洗礼を浴びせかけようとした ピカソを超越した美の真髄だ。
東京オペラシティアートギャラリーにて 「宇野亞喜良展 AQUIRAX UNO」に行ってきた。 宇野亞喜良の大々的な展示には初めて足を運んだが、 広告はむろん、絵本や装丁の原画からポスター、彫刻に映像作品まで 幅広いジャンルとその個性に直に触れ 出品点数が900点越えというそのボリューム、その独自の世界を十二分に堪能した。 「アートとデザインの境界線は、この先20年のうちになくなるんじゃないかという気がする」 とはかの横尾先生の言葉。