勝新太郎『座頭市』をめぐって
勝新太郎が1989年に撮った『座頭市』。 文字通りのラスト座頭市であり、 73年、自身の勝プロで『新座頭市物語 笠間の血祭り』を撮って以来 十六年ぶりに完全復活を果たし、 勝新が最後にメガフォンをとった作品としてシリーズ最終作であると同時に、 のちに訪れる破滅と影を予告する、 奇妙に澄んだ悲劇性をも帯び、いろんな意味で呪われた映画だ。
映画・俳優勝新太郎が1989年に撮った『座頭市』。 文字通りのラスト座頭市であり、 73年、自身の勝プロで『新座頭市物語 笠間の血祭り』を撮って以来 十六年ぶりに完全復活を果たし、 勝新が最後にメガフォンをとった作品としてシリーズ最終作であると同時に、 のちに訪れる破滅と影を予告する、 奇妙に澄んだ悲劇性をも帯び、いろんな意味で呪われた映画だ。
未分類ダルテンヌ兄弟による映画『ロゼッタ』の主人公ロゼッタが 最後に嗚咽する涙に、少し救われた思いがするのは そうした事情映画からなのかもしれない。 人間らしさ、とでもいうのだろうか。 アル中で生活難、しかも、セックス依存で 身体を売るしか能の無い未来がない母親との生活の中で ただ、普通に暮らしたいという思いから、 必死に仕事を求めて、格闘する姿を一方的に見せてゆくロゼッタ。 映画は、この孤立無援の娘への憐憫を募らせはするが、 一方で、優しく寄りそうおうと手をさしのべてくれる天使 リケでさえも邪険にされるのだから、やれやれ 困ったものである。
映画・俳優よさこい節のフレーズにも入っている、高知のはりまや橋で ひとりの少年が行き交う車を見定め、身体を張ろうとしている。 ドライブレコーダー搭載の自動車が当たり前の現代社会に かつては当たり屋なんていうベタな稼業が横行していたのだと いまの若い人たちは知らないかもしれない。 いうなれば、詐欺である。 いちゃもんをつけ、カネをせびる。 かつて、反社なひとたちがよくやっていた手口だが それを家族をあげてやっていたという実話を映画化した作品で、 大島作品の中でもぼくが好きな一本『少年』である。
映画・俳優霧が降りた朝、何も見えない世界から、 その小さな足で踏み出す異母姉弟ヴーラとアレクサンドロス。 父を探すと言って祖国ギリシャから ドイツへと向かう列車へ無賃で乗り込み、最初の一歩に抱き合う。 だがおそらく、観客は最初から気づいているにちがいない。 彼らが探しているものは、実在しないかもしれないのだと。 あるいは、最初からそれは存在しなかったのかもしれないのだと。 まるで霧の中に見えない“神話の国”を求めるようにして ひたすら歩き続けるしかない姉弟の過酷なロードムービーの始まりである。
アート・デザイン・写真北欧のフェルメールなどと、なんとも安易な形容が付いてはいるが その絵を見つめていると、あながち、的外れでもないなと思えてくる。 デンマークの画家ヴィルヘルム・ハマスホイの室内画に惹かれている。 その静謐さ、ミニマリズムはもちろん その内向性ゆえの思いを秘めた気配に、 なにか、そそられるものがあるからだろうか?
アート・デザイン・写真たしかに、冬は家から出たくなくなるし、 おのずと行動範囲が狭まったりもするが、 逆に、その分、好奇心がどこからともなくわいてきて いてもたってもいられない感慨にも襲われる。 来るべき春への準備とともに、 自分のなかに、なにか大切な思いを育む季節でもあるのだと思う。
映画・俳優デヴィッド・リンチの名を聞くだけで、 ぼくらは漆黒の闇に沈む悪夢のような世界を思い浮かべてしまうのだ。 『イレイザーヘッド』の胎児的恐怖にはじまり 『ブルーベルベット』の倒錯したフェティッシュ、 『エレファントマン』の残酷で聖なる奇形児の宿命を、 あるいは『マルホランド・ドライブ』の多層的幻影を思い出すからだが、 現実の裏側に潜む狂気を覗き続けた男、それがリンチという作家である。 しかし、そのリンチが、あえてそれまでの暗黒世界を封印し、 ひとりの老人の穏やかな旅を描いた映画がある。 1999年の『ストレイト・ストーリー』。 これは、上記の作品にはない、 リンチという作家の“優しさの核”をむき出しにした、 実に稀有な一本であるといえるだろう。 正直に告白すれば、映画としては 自分にとってリンチはこの一本でも十分なのだ。
アート・デザイン・写真風の吹くフランス南東部、ドローム県オートリーヴ村に、 かつて、ひとりの郵便配達員が築いた奇跡がある。 その男とはフェルディナン・シュヴァルという、 十九世紀末、文字どおり“石を積む”ことで夢を現実に変えた男だ。 彼の建てた理想宮(Palais Idéal)が、建築である前に いまも一篇の詩としてそびえ立っていることに驚きを禁じ得ない。 それは、彼の人生そのものが凝縮されたひとつの祈りとして、 愛、誠実さ、そして永遠への憧憬の結晶を打ち立てた物語である。
映画・俳優クシシュトフ・キェシロフスキによる『ふたりのベロニカ』には ポーランドとフランス、この二拠点それぞれに生きる若い女性がいる。 ふたりは面と向かい合うことはないが、見えない糸で繋がっている。 しかも、同じ時刻に生まれ、名前も見た目も瓜二つ。 そんな透明な糸が、互いに知らぬ者同士を天上から操るかのように、 運命の鼓動を、どこかで虫の知らせのように鳴らしはじめる。 そんな偶然を、声ではなく、光でもなく、 まずは音楽によって雄弁に語り始める、異様なまでに繊細な物語にせまってみよう。
映画・俳優家族の数だけ“家”の物語がある。 誰もが抱える、身近で大切な共同体である家族が 愛ゆえに人を見守り、互いに支え合うという神話も どこか、希薄なまでの薄っぺらさばかり露呈されがちな現代社会において、 ラッセ・ハルストレムがハリウッドで手がけた最初の作品 『ギルバート・グレイプ(原題:What's eating Gilbert Grape)』には その綾を縫いながらも、家族の絆、つながりが描き出されている。 そこには痛みを通して、前に進まずにはいかない物語が ある種の通過儀礼として描き出されている。