「lopyu66」の記事

ローラ 1961 ジャック・ドゥミ映画・俳優

ジャック・ドゥミ『ローラ』をめぐって

石畳、路面電車、遊園地、霧にけぶる港、そして米兵水夫。 フランスの西、港町ナントの灰色の空の下、 どこからともなく潮騒の匂いを含んだ風が 石畳をなでるように吹き抜ける。 故郷を舞台にした、ジャック・ドゥミの処女作『ローラ』は、 そんな静かな風景に、アイリスインで幕を開けアイリスアウトで終わる。 これにわざわざヌーベルバーグの作品などと焚き付けたくはない、 そんな昔気質の哀愁がある。 人生の喧噪をひとまず忘れ、少し離れた場所、人々の生活のすぐ隣に、 確かに存在する夢と記憶のかけらが顔をのぞかせる瞬間の愛おしさ。 そこにドゥミは、少年のように、カメラというレンズ越しに、 ぼくらの見るべき“行間”をそっと提示してくれるのだ。

チャールズ・ロートン『狩人の夜』をめぐって映画・俳優

チャールズ・ロートン『狩人の夜』をめぐって

100年を超える映画史において、ただ一作をもってのみ カルトな、しかも忘れがたい名作を残した映画作家が少なからずいる。 中には、未なお埋もれている発掘されざる作家もいるかもしれない中で、 チャールズ・ロートンによる『狩人の夜』は、 初公開当時は不評で、まさにそうした呪われた系譜にある、 陽の目をみなかった作品である。

ルキーノ・ヴィスコンティ『ベリッシマ」をめぐって映画・俳優

ルキーノ・ヴィスコンティ『ベリッシマ』をめぐって

今も昔も世に言うステージママという種族は どの国にもいるものらしい。 我が子可愛いや可愛いや我が子、その思いは人情としては理解できるが なかには自分のエゴからくる過剰なまでの力の入れようを これ見よがしにみせつけられるとなると、 さすがに引いてしまうのもまた人情というもの。 第一、子供が可哀想である。 大人のおもちゃではないのだ。 ヴィスコンティの『ベリッシマ』では そのステージママたる母親マッダレーナを ロッセリーニ「無防備都市」や「人間の声」などで知られる イタリアを代表する女優あのアンナ・マニャーニが演じている。

ロピュマガジン【ろぐでなし】vol.45 空想巡回映画館 ただいま上映中映画・俳優

ロピュマガジン【ろぐでなし】vol.45 空想巡回映画館 ただいま上映中

やはり、秋はいい。いいのだ、秋。 そんなことを静かに噛み締めながらも、 やはり、モノには道理、そして移ろいがあり、 それを感じることは幸せなことであり、 それを感じ取れる日本という国が年々愛おしくなっている。 幸い、ようやく、不穏な空気、気配が開けそうな世の夜明けを横目に 希望のわく、そんな思いと、少し憂いを滲ませるという相反する 複雑な思いもかくさずに、サウダージな詩的なひとときを 言葉に託したいと思う。

『フランケンシュタイン』1931 ジェームズ・ホエール映画・俳優

ジェームス・ホエール『フランケンシュタイン』をめぐって

よって、ジェームス・ホエールの『フランケンシュタイン』を、 ただの古典ホラーといって片付けてはもともこもない。 その核心には、稲妻が死体を打つ瞬間よりも、 怪物のゆっくりとした“まなざし”、 内なる感情のゆれを見つめていていたい瞬間があるからだ。 怪物は、怪物として、すでに誕生した瞬間から 世界にとっての“異物”として扱われることを余儀なくされる。 しかも脳のなかみは象徴的なまでに粗暴な殺人者のそれ。 実のところ、彼はまだ何も知らないし、なにもしでかしてはいないのだ。 そこには善悪も、暴力も、恐怖もない。 むろん、企みや野望も持ち合わせてはいない。 いわゆる赤ん坊そのものである。

音楽

秋とともに、ミュージック実行委員会  MIDNIGHT編

だんだん昼が短くなってきたと痛感する今日この頃。 まだまだ冬は来てほしくないと思うのだが、 昼間の暖かさから、我に帰るかのように、 朝夕のぐっと冷え込んだ温度に、なぜだがほっとするのはなぜだろう? 昼に聞く虫の音と夜のそれではまったく違うのだ。 どこか、太古の記憶さえ地続きで引っ張り出されそうなほどに 秋の夜は、どこか記憶の奥深くに通底しているように思えてならない。

夜のにじみ音楽

秋とともに、ミュージック実行委員会  NOCTURN編

だんだん昼が短くなってきたと痛感する今日この頃。 まだまだ冬は来てほしくないと思うのだが、 昼間の暖かさから、我に帰るかのように、 朝夕のぐっと冷え込んだ温度に、なぜだがほっとするのはなぜだろう? 昼に聞く虫の音と夜のそれではまったく違うのだ。 どこか、太古の記憶さえ地続きで引っ張り出されそうなほどに 秋の夜は、どこか記憶の奥深くに通底しているように思えてならない。

三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実 2020 豊島圭介文学・作家・本

豊島圭介『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』をめぐって

11月25日、この日がいったい何の日か、 即答出来る日本人もだんだん少なくなってきたのではないかと思う。 かくいう自分もその日の出来事があった当時のことは 生まれていたとはいえ、認識は随分遅かった。 こどもに到底理解できるような話でもないわけだが、 まさに、歴史上の出来事として、無視することはできない 昭和の忘れざる一日であることは間違いないところ。