オフビートポエトリー IN アメリカ
80年代、ジャームッシュの登場は、そのスタイリッシュな映像と音楽で
日本でもミニシアターブームにも乗じて、大々的にとりあげられ
新しい映画の夜明けを見たものだった。
まずはスクリーミン・J・ホーキンスの音楽と、そのオフビート感覚で席巻した
『ストレンジャー・ザン・パラダイス』の衝撃が忘れられない。
ジャームッシュが現れてくれたおかげで、
ぼくらは映画というものの敷居を、良い意味でフラットになったことを体験した。
素人同然のミュージシャンたちを俳優として起用し、
ストーリー仕立ての既成を取っ払ったスタイルは実に新鮮だった。
永瀬正敏と工藤夕貴のカップルが堂々主人公に抜擢され
スクリーンに登場した『ミステリー・トレイン』には、
なんだかいい知れないうれしさと興奮を覚えたものだ。
人種や職種や文化を特別なものとして描かないその自由さのなかに、
ぼくらの世代は素直に共感をもったのだ。
アメリカ映画の歴史を振り返れば、
多くの映画作家は、まず「物語」を語る者として受け止められてきた。
西部劇の叙事詩を築いたジョン・フォード、
サスペンスの精緻な構造を完成させたアルフレッド・ヒッチコック、
あるいはスペクタクルを娯楽へと昇華したスティーブン・スピルバーグ。
彼らは皆、映画を物語芸術として発展させてきた巨匠たちだ。
しかしその系譜から外れて、静かに異質な位置を占める作家がいる。
例外的な存在オーソン・ウェルズをはじめ
それはニューシネマやダイレクトシネマの流れを汲んだカサヴェテス、
実験性とアートの融合でこれまた一世風靡したデヴィッド・リンチ。
そして、このジム・ジャームッシュの登場によって
アメリカンシネマに新たに道開かれたといっていい。
彼の映画は、物語を語ることよりも、むしろ時間を観察することに重きを置く。
そこでは劇的な出来事よりも、都市の片隅に漂う沈黙や、
何気ない会話の断片が重要になるのだ。
ジャームッシュは、アメリカ映画の伝統のなかにありながら、
どこか文学や詩に近い感覚で映画を作る稀有な作家である。
ビート文学の漂泊
ジャームッシュの映画を語るとき、
まず想起されるのはビート文学の精神である。
1950年代のアメリカ文学を揺さぶった作家たち
たとえばジャック・ケルアックやアレン・ギンズバーグは、
都市の周縁をさまよいながら、旅と即興、
そして自由な言葉のリズムを文学へと持ち込んだ人種だ。
ジャームッシュの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』には、
その精神が濃厚に漂っていた。
物語はニューヨークからクリーブランド、そしてフロリダへと移動するが、
その旅はケルアックの『路上』のような熱狂的な放浪ではない。
むしろ、どこへ行っても変わらない退屈と孤独が淡々と続くだけだ。
ここで重要なのは、旅そのものではなく、旅の途中にある時間の感触である。
人物たちは何かを達成するために動くわけではない。
ただ漂い、会話し、沈黙し、そしてまた歩く。
ジャームッシュのロードムービーは、まさにビート文学の漂泊を継承しながらも、
そこに独特のクールな距離感を与えている。
ヌーヴェル・ヴァーグの自由
もう一つの源流は、フランスの映画運動フランス、ヌーヴェル・ヴァーグである。
ジャームッシュ自身はジャーナリズムと文学の洗練を浴び、
パリという映画都市でシネマテークに足繁く通いながら
ヴィンダースの軌跡をなぞるように、映画三昧の10ヶ月の日々を過ごしている。
とりわけ、ゴダールやロメールの映画が持つ軽やかな即興性は
ジャームッシュに強い影響を与えた。
低予算の撮影、都市ロケーション、自由な構造。
こうした方法はヌーヴェル・ヴァーグの特徴であり、
ジャームッシュの映画にも明確に引き継がれている。
ただし彼は、ゴダールのように理論的な映画を作るわけではないし、
政治そのものから、その興味の視線をもりこまなかった。
むしろ、もっと静かな観察者として都市を見つめる。
その結果、ジャームッシュの映画はヨーロッパ芸術映画の精神を持ちながらも、
アメリカの都市文化に深く根ざした独特の佇まいを持っているのはそのためだ。
オフビートの美学
ジャームッシュの世界を特徴づけるもう一つの要素は、オフビートな感覚である。
オフビートとは、ジャズのリズムにおいて拍子の裏にあたる位置を指す言葉でありつまり主旋律ではなく、少しずれた場所に生まれるリズムである。
このあたりが、フィンランドのカウリスマキとの類似性を感じさせる。
ジャームッシュの映画の登場人物もまた、社会の主旋律から外れた存在である。
移民、放浪者、タクシー運転手、あるいはバスの運転手。
彼らは社会の中心ではなく、常に都市の縁に立つ人々だ。
しかもそのズレの中に、独特のユーモアが生まれる。
たとえば『Down by Law』では、刑務所に入れられた三人の男の会話が、
妙な間とズレによって可笑しみを生み出していく。
ジャームッシュのユーモアが、ギャグではなく
リズムのズレから生まれることを証明した代表作だ。
はじめに会話ありき
ジャームッシュ映画の核心には、しばしば会話がある。
その傾向は、たとえば『コーヒー アンド シガレッツ』に顕著に描かれる。
そこにはコーヒーと煙草をめぐる短い会話の断片を連ねた短編が積み重ねられ、ドラマチックな出来事などほとんど起こらない。
ただ人々が話し、沈黙し、そして別れていく。
しかしその断片の集積が、都市の空気を浮かび上がらせるのだ。
まるで短編小説集のような構造であり、ジャームッシュの映画が文学的と呼ばれる理由もここにある。
彼の映画は物語の進行ではなく、断章の積み重ねによって世界を描く。
それは『ナイト・オン・ザ・プラネット』へと続いてゆく。
詩人のまなざし
ジャームッシュの文学性は、しばしば詩人への関心として現れる。
たとえばジョニー・デップを迎え、西部劇を解体した作品「デッドマン」は、
詩人ウィリアム・ブレイクの神秘的な詩世界を背景に持っている。
また、静かな日常を描いた『パターソン』では、
詩人ウィリアム・カーロス・ウィリアムズの長編詩
『Paterson』へのオマージュとして
ニュージャージー州パターソンに住むバス運転手、
アダム・ドライバーを演じるパターソンの一週間が描かれている。
ここで重要なのは、ジャームッシュが詩を映画に引用するだけでなく、
映画そのものを詩の構造で作る点である。
『パターソン』では、同じ日常が反復される中で微妙な差異が生まれるが
この反復と変化のリズムは、まさに詩の形式そのものといっていい。
こうして、ジャームッシュ映画は、映像における散文として
観るものたちに、絶妙の距離を保ち、空気として
その感性を忍ばせてきた作家だ。
カメラを持った詩人
ジャームッシュの映画を見終えたあと、
観客はしばしば奇妙な感覚を抱くだろう。
大きな出来事は起こらなかったはずなのに、
なぜか豊かな時間を過ごしたように感じるというやつだ。
同時に、他人の日常に入り込むスリルを味わいながら、
そのフィクションの間を、しばし旅することになる至福の時間。
『ナイト・オンザ・プラネット』では、ぼくらは知らない街の
まったく見慣れない一コマのコント(情景)に誘われ
物語を体験することになる。
そこでは、落語のようにただ話に引きこまれてゆく。
同じ時刻の世界を断片的に切り取り見せるといった、
ジャームッシュならではの感性が綴られている、らしい作品だ。
それは彼の映画が、物語ではなく時間そのものを描いているからに他ならない。
都市の夜、バーの会話、通り過ぎる人々。
こうした小さな瞬間が集まり、静かな詩のような映画を形作る。
もし多くのアメリカ映画監督が「物語を書く人」だとすれば、
ジャームッシュは“時間”を書く人である。
彼は都市の夜を歩きながら、カメラで殴り書きの散文を綴っているといった風に。
それこそはビートニックな詩人たちに共鳴する姿勢である。
そしてその映像詩は、けして派手な物語ではなく、
人生の些細な瞬間を記録した断章でもあるのだ。
そうして、時に巧妙に、葉隠れを引用したり、
ゾンビという異物を物語に溶かし込んだりしながら、
ジャームッシュとは、映画監督というよりもむしろ、
夜の都市を歩く詩人として映像でつぶやき、語るのだ。
そんなジャームッシュも70代に突入して、その白髪も
いよいよ年相応に存在感は増すばかりだが
先輩ヴェンダースが、いっとき陥ったような映画産業の裏にある、
ジャイアントステップの落とし穴にはハマることなく、
独自の路線のまま、その瑞々しいインディペンデントな気配だけは
これからも失って欲しくないと思う。
◉ぼくの偏愛的ジャームッシュ5選
- Stranger than paradise
- Down by Law
- Coffee and Cigarettes
- Paterson
- Deadman
SQÜRL – Berlin ’87
ジャームッシュの映画に登場するミュージシャンたち、ジョン・ルーリー、トム・ウェイツをはじめ、イギ−・ポップ、RZA、スクリーミン・J・ホーキンス、ジョー・ストラマーといった面々もまた、独自のスタンスで活躍したミュージシャンたちだ。彼らは職業的な俳優にはけしてマネできない身体性のリズムを抱えながら、ジャームッシュ映画を支えてきた重要な要素でもある。そうした身体性と共に、彼らの音楽や、みずからも音楽ユニットSQÜRLでの実験的な音楽性を聞いていると、いつなんどき、その振れ幅に振り切った音楽的な志向性を抱えているのがよくわかる。しかしジャームッシュの映画では、そうした精神性には偏らずに、映画作家としても独立した成功を収めているところがすごい。オフビートは逃げでもなく、気の衒いでもなく、ある種の必然としての導線として、ジャームッシュの前にあるのだ。その意味では、どこかリンチ的スタンスを意識しながらも、ジャームッシュは決して映画から視線を離さない作家だったのだと、その音楽性からも感じられるのだ。










![[門戸無用]MUSIQ](https://lopyu66.com/wp-content/uploads/2020/11/misiq-1-485x300.gif)

コメントを残す