サロン D’ アニエス・ヴァルダ

Varda par Agnès 2019 アニエス・ヴァルダ
Varda par Agnès 2019 アニエス・ヴァルダ

路上の人、見つめる人、純潔の人

アニエス・ヴァルダの眼差しが好きだ。
彼女の語りが大好きなのである。
時に祖母のようでもあり、また、歳の離れた友達のようであり、
また、この世のあらゆる境界線上に生きる創造物のようでもあるアニエス。
そんな彼女が映画で使用する文法の自由さに驚き
いつのまにか、その世界に引き込まれてきた。
そんな敬愛してやまないこのシネアストについてのサロンを
ここに言葉で開いてみたい。
ただし、ここでは彼女の仕事を言葉でうまく語るよりも
同時に彼女を知らない人にも向けて、
そのアウトラインが親しみを共感できるガイドになればいいと思う。
極めて低い敷居になることを願う。

Agnès(発音ではアニェスが正しいのだが、ここではアニエスで通す)
この女性名の語源は、ギリシャ語で「純潔」を意味する。
フランスでは15世紀のフランス王シャルル7世の愛妾で
「フランス史上、最も美しい女性の一人」と称されるアニエス・ソレルからも
「洗練された美」をも想起させる名前である。
このアニエス・ヴァルダという映画作家は、フランス語圏でもベルギー出身で、
父親がギリシャ人ということもあり、どこか“ピュア”というか
真っ直ぐ物事を直視する、生まれ持った目を背負って生きてきたのかもしれない。
そんなアニエスにはどこか海辺の風景が似合う。
「浜辺はひらめきの場所。心の中の風景」そう彼女はいう。
だが、ときに、路上さえも砂浜に変えてしまう人なのだ。

この稀有な芸術家が、自らの歩みを振り返った最後のドキュメンタリー
『アニエスによるヴァルダ(Varda par Agnès)』では、単なる回顧ではなく、
人生と芸術がしなやかに編み込まれた、
一冊のスクラップブックのような作品として記憶している。
海風にそっと押されてカメラを構える、そのちっちゃな老女。
その風体はどこかあのトトロにも似ている。
白髪に鈴カステラよろしく赤紫に染めた髪がキュートで、
猫が大好き、九十を超えてもその茶目っ気を忘れない親しみやすさがある。

一方で、時間を切り取ってゆくその鮮やかな手法で、
彼女は、ヌーヴェル・ヴァーグの祖母と言われ
長年、独自の路線でフランス映画界にその軌跡を残してきた人物である。
ヴァルダは語る、そうただ単に映画を撮る人ではなく、
仕掛けとしてステージに座って語る。
だが、そこに権威などはさまない。
さりげなく、でもこれぞエンターテイメントとして、老いてなお魅せる。
スクリーンを背に、観客の前で、自分の映画人生をレクチャーする。
だがその語りは明朗で、しかもチャーミングだ。
むしろ、マルシェ帰りのカゴからふと見せてくれる一枚の写真のように
ふんわりと差し出されるその世界。
見て見て、これがわたしの見てきた世界なのよと。

アニエスの芸術性は、たしかにワールドワイドなベクトルを有している。
ある時は、現代美術家のように鋭く切りこんでくる。
もとは写真家からスタートしたキャリアにおいて、視線は鋭い。
その彼女の撮った写真には、錚々たる顔ぶれが刻まれている。
ダリ、フェリーニ、ヴィスコンティ、カルダーやブレッソン
そしてハリソン・フォードやカストロetc
そんな有名人と同等に、市井の人々を捉えた数々のショットもある。
むしろ、通りすがりの人間にこそ、実は彼女の関心があるといっていい。
それこそは、アニエスの真髄だからだ。

こうして、写真、映画、インスタレーション、
そして現代アートという枠さえ軽やかにまたぎながら、
彼女は「アーティスト」として生きてきた。
だが、そのまなざしは決して高みから降ってくるものではない。
彼女が愛したのは、パンを焼く職人、
路上のくだものを拾って食べる高学歴の男、
路地裏に咲く無名の草花たち、そして猫。
そして、なによりも愛しの相棒ジャコー。
芸術というより、生活のほうに傾いたまなざしが美しい。
美とは、気づきに宿るということを、
彼女のカメラはいつも証明してきたのだと思う。

ヴァルダの真骨頂は、何よりも「小さなもの」へと向かう眼差しにある。
弱きものに寄り添う優しさがある。
『落穂拾い』では、廃棄物を拾う人々を描きながら、
同時にカメラ自身がミレーのように、
“落穂を拾う”行為そのものと化してゆく。
そして積み上げられた廃棄するジャガイモから
ハートのものを拾って自らアートにする。
そこには選ばれし被写体などは不要だ。
ただ、見過ごされてきたものたちに向けた、
もう一度光をあてなおす、という優しい倫理がある。
そしてそれを、ユーモアと詩と、
ちょっぴりいたずらっぽい視点で包み込むのが、アニエス流だ。

彼女の映画は、どこか手作りのコラージュに似ている。
そう、手仕事の香りが漂う。
自宅の壁を飾るように、映像を継ぎはぎし、
音楽をはさみ、語りを添える。
ときにそれは日記であり、ときに詩であり、ときに政治声明にもなる。
だがそのどれもが、「いま・ここに・わたしが在る」という
確かな実感から出発している。

たとえば、老いてからのヴァルダは、
鏡のようなレンズで自分を見つめ、なおも他者にもしっかり目を向け続けた。
『アニエスの浜辺』や『顔たち、ところどころ』では、
自分の記憶の地層と、他者の物語とが、
たがいに水脈を見つけ合うように交差していく。
老いは終わりではなく、むしろ世界を見つめなおす作業であり、
それによって新たな角度を与えるのだと、彼女は証明してみせた。

そして忘れてはならないのは、彼女の人生と創作のそばに、
つねにジャック・ドゥミという存在がいたということだ。
自身のキャリアを回想し、ドゥミの写真を抱えるアニエスが愛おしい。
アニエスにとって映画は、個人的な冒険であると同時に、
愛と記憶を宿す容れ物だったのだ。
ドゥミが病に倒れて以降、彼女は彼のフィルムを次々と修復し、
語り継ぐことにも力を注いだ。
『ジャック・ドゥミの少年期』は、その愛の証、結晶であり、
喪失を越えてなお続く対話のかたちが、映像でドゥミの伝記として綴られている。
ただし、彼女が単なる“映画オタク”にならなかったのは、
創作がつねに「あなた」と「わたし」の間にあるものとして
常にそこに在り続けたからに違いない。
彼女の文法は、あくまで、みる側になにかを感じさせる余白を常に残す。
それは決して白黒はっきりした物言いで迫ることはない。
ときに曖昧で、物事の境界線上をうろうろ蜃気楼のように漂う。
善悪、貧しきものと富めるもの、人間と動物、子供と大人、
そして芸術家と市井の人間を区別したりはしない。
なにより、フィクションと現実の境目がよくわからない。

アニエス・ヴァルダは、こうして女性映画作家の先駆者でありながら、
決して“女だから”を売りにしたことなど、一度もなかった。
ぼくがアニエスを愛してやまないのは
そうしたジェンダー意識に縛られない強さであり、自由さなのだ。
ただ「女性として生きるとはどういうことか」を、
「人間」へと普遍的に置き換えながら、
静かに、時に痛烈に描き続けた作家である。
『5時から7時までのクレオ』や『幸福』に
そんな彼女の思いが詩的に詰まっている。
怒りをぶつけるのではなく、そっと糸を紡ぐように。
そこには感情を超越した眼差しを宿すクールさがある。

彼女の創作は、いつもユーモアに富み、詩のように軽やかで、
だけど芯に一本の鉄線が通っていた。
映画とは、問いかけることであり、つながることであり、拾いあげること。
そう教えてくれたアニエスは、今日もわたしたちの眼差しの片隅で、
いつもカメラを構えて微笑んでいる。
そして、老いや病気ですら、それをユーモアで作品に変えてゆく。
そんなアニエスの映画に、終りなどありはずもない。
そう、彼女はもはやこの世にいないが
その雄弁で素敵な映画を残してくれたのだ。
世界がまだ語られていない「小さな物語」で満ちている限り、
彼女の眼差しは私たちの中で受け継がれていくはずだ。

自身のドキュメンタリーには、
彼女が回想するいくつかの代表的な作品が登場する。
その映像たちは彼女の芸術観と人生哲学を体現している。
ヌーヴェル・ヴァーグの先駆けとされる初監督作で、
詩的ナレーションとドキュメンタリー的視点が融合した実験的な作品
『ラ・ポワント・クールト』。
病の恐れに揺れる歌手クレオの2時間をリアルタイムで描き、
パリの街と女性の内面を同時に映すヌーヴェル・ヴァーグ的傑作
『5時から7時までのクレオ』。
伴侶ドゥミの記憶と作品をたどる、
愛に満ちた追悼映画『ジャック・ドゥミの少年期』。
ヴァルダの最高傑作と言わしめたのが
さすらいの末に凍死したひとりの少女モナを
サンドリーヌ・ボネールを主役に据えた劇映画『冬の旅(さすらう女)』
社会の片隅で生きる人々と、ものを拾うという行為そのものを
ミレーの絵画をパロディに映像詩に昇華した記録映画『落穂拾い』。
80年代終わりには、友として、仕事仲間として
良好な関係を築くジェーン・バーキンを主役に、共作ともいうべき、
『カンフー・マスター!』、『アニエスv.によるジェーンb.』2本の作品を制作している。

また、映画発明100年を記念して作られた『百一夜』では
興行的には失敗作だと語られるが、
錚々たる俳優たちが彼女の元に集結し、
彼女のスタイルであるフィクションとドキュメンタリーを織り交ぜた
一大コメディが展開されている。
八十の声を前に、自身のキャリアと人生を巡るセルフ・ポートレート的作品
記憶と創作の地層を発掘する旅を描いた『アニエスの浜辺』。
そして結果的に遺作となった『顔たち、ところどころ』では
若きアーティストJRとのロードムービー的共同作業であり、
村人たちの顔を巨大なポートレートにして貼ることで、
見過ごされがちな人々を讃えるプロジェクトだ。
ラストを飾るにふさわしい未来へのバトンのような作品となった。

どれもが、見直せば見直すほどに、単なる娯楽やエンターテイメントを超えた
深い人生の観察眼に根ざしている。
そして、路上を見つめる彼女の眼差しには
いつもどこか、弱きものや不条理に苛まれる人間の裸の姿があり
ヴァルダの深い愛情を忍ばせていく。
それはゴダールのような革新でもなければ
トリュフォーのような激しい情感でもない。
まさに、ヴァルダ流の映画詩学に貫かれた奇跡のような映画たちであり
少し屈折した彼女ならではの詩情の文法が展開されてゆく。
そんな、シネアストは他にいない。
あらためてここに乾杯しよう。

ciné tamaris
ciné tamaris

彼女は大の猫好きで『アニエスによるヴァルダ』のなかにも家族同様の存在として、ズググという名で登場する。そして最後に、ズググの死を悼む墓の制作がスティーブ・ライヒの楽曲を伴って描かれているが、海の近くにその墓を建てた彼女は、ズググに墓ごと別世界を見せるのだと、財団に頼んでヘリコプターからの俯瞰撮影を敢行する。ヴィデオには、彼女の猫への思いが、まるでジャン・コクトーがやりそうな旧式の逆回転で、花や貝殻を散りばめてゆく。それを今度は財団の庭に設置した小屋で、常時再生される仕組みをつくる。そこに地域の子どもたちがやってきて一緒にズググを偲ぶという、なんともアニエス的な発想が印象的だ。

絶対に見て欲しい私的ヴァルダBEST5

  • 『5時から7時までのクレオ』
  • 『幸福』
  • 『冬の旅』
  • 『落穂拾い』
  • 『顔たち、ところどころ』

Michel Legrand Orchestra – You must believe in spring

ヴァルダ作品、あるいはドゥミ作品といえば、この人、フランス映画音楽を代表するミシェル・ルグラン。ジャック・ドゥミの第一作『ローラ』から二人の関係がはじまっている。そして、その流れでヴァルダの『5時から7時までのクレオ』にもピアニストの役で出演してピアノを披露しており、ルグランの最高傑作がミュージカル映画『ロシュフォールの恋人たち』というのはよく知られたところである。作品の数は200曲以上といわれ、いまさら説明不要なレジェンドだ。

ルグランという人は、音楽の軽妙さとは裏腹に、自分にも他人にも一切妥協を許さない厳格な性格としてられて、容赦無くダメ出しし現場を当惑させてきたエピソードは、去年公開のデヴィッド・ヘルツォーク・デシテス監督による『ミシェル・ルグラン 世界を変えた映画音楽家』というドキュメンタリーのなかでも語られている。そんなルグランだが、やはり、ヴァルダサロンの音楽には相応しいのはいうまでもない。そのルグランの曲で、『ロシュフォールの恋人たち』のために作曲された「You must believe in spring」のオーケストラバージョンを贈ろう。この曲はビル・エヴァンスのカバー曲もあり、ふたりを比べると、エヴァンスのリリシズムと比べ、ルグランがいかにフランス的な作曲家だったかがよくわかると思う。

Marlena Shaw – You must believe in spring

ちなみに春近しという空気を鑑みれば、こちらマリーナ・ショウのソウルフルなボーカルカバーナンバーも好きなので、こちらもおまけであげておこう。