大九明子『勝手にふるえてろ』をめぐって

勝手にふるえてろ 2017 大九明子
勝手にふるえてろ 2017 大九明子

自意識という名の重力に対する、静かな降参宣言

この作品を見たのは、確か、今はなき飯田橋のギンレイだったと思うが
なにと二本立てだったかまでは忘れてしまった。
さて、正月気分も抜け、このシリーズのラストを飾る、
大九明子による松岡茉優主演の『勝手にふるえてろ』は、
ラブコメというもっとも“回収されやすいジャンル”を選びながら、
その回収を最後まで拒否する、奇妙ながらも誠実な女性目線の映画である。
恋愛映画の顔をしているが、実の所、恋愛についての映画ではない。
成長物語の形式を借りているが、人物の成長過程など
ほとんど描いてなどいないも同然だからだ。

とはいえ、主人公ヨシカは、現代日本において、決して特異な人物ではない。
職場に適応し、最低限の社会性を保ち、極端な逸脱行動を取るわけでもない。
ただし彼女は、常に自分自身を見つめすぎてしまう女子で、
測り、先回りし、評価し、傷つく前に撤退するを繰り返している。
その内的運動が止まらないのだ。
最後は想像妊娠という妄想だか、嘘だかわからない状況に自ら追いやってしまう。
実に、豊かな感情と表情のヒロイン像が、なんとも魅力的に思えた。

この“自意識の濃度”は、必ずしも病理ではないといっておく。
SNS以後の世界において、他者の視線を想像し続けること、
自分の振る舞いを編集し続けることが、
ほとんど標準装備になっているのはこの時勢、ご覧の通り、珍しいことじゃない。
ヨシカが極端なのではなく、可視化されれば
だれだって多かれ少なかれ、こうなるのだろう。
大九明子の鋭さは、ここにある。
彼女はヨシカを「変わった女」として描いたりはしないのだ。
むしろオカリナを吹く隣人片桐はいりや、
気を惹こうと猛アッタクを繰り返す渡辺大知の“二”の方にその役割を託している。
現代の“普通”の地点にいる人物として描く点には共感を覚える。
だからこの映画は、一見奇妙なのに他人事にならず、
笑えるのに、どこか息苦しいのはそのためにちがいないのだ。

ヨシカの妄想、初恋の「イチ」への執着や、
現実の男性「ニ」に対する過剰な物語化は、恋愛欲望の暴走というよりも、
関係に入る前に自分を守るための仮設空間として機能している。
恋愛は目的ではなく、あくまで舞台装置にすぎない。
自意識が過負荷を起こさないための、緩衝材というべきか。
象徴的なのが、ヨシカが愛好するアンモナイトの化石である。
かつて確かに生きていたが、今は形だけが残っている存在としてのオブジェ。
変化や劣化、失敗や拒絶を引き受けることなく、時間の中で凍結された生の痕跡。
そこにヨシカは安心を見出す。
アンモナイトは裏切らないし、拒絶しないし、こちらを評価もしない。
恋愛よりも安全な“関係”なのだ。

ここでこの映画は、ある倫理を選び取ることになる。
妄想を「可愛い個性」にもしないが「成長の前段階」にも回収しないし、
「才能」や「創造性」にも読み替えず、ただ、そこに置く。
この態度こそは、どこか黒沢清の映画的倫理と深く響き合っている。
黒沢清が、異常や恐怖を説明や解決へと回収しなかったように、
大九明子は自意識を癒しや成長へと回収しない。
異常は世界に侵入するのではなく、常に内面に常在している異物である。
しかもそれは、説明不能なまま生き続ける事になるはずだ。

その極点をラストシーンにみる。
雨に濡れ、少し滑稽で、少しみじめな姿でヨシカの元にやってくるニに向かって、
玄関先で二人は勢いで抱き合いながら、そのときヨシカはこうつぶやく。
「勝手にふるえてろ」と。
なるほど、そういうことだったのか、ふむふむと合点がゆく。
つまり、この言葉は、相手を突き放す言葉なんかではなく、
愛の告白でもなかったのだなと。
それは、世界や自分に意味を要求し続けてきた自意識そのものに向けた、
静かな降参宣言だと読み取ればいい。

だからもう、説明しなくていい。
もう、理由を探さなくていい。
震えるなら、震えたままでいいのだ。
この瞬間にも、ヨシカは妄想を捨てないし、自意識を克服もできてはいない。
ただ、それを意味づけしようとする衝動だけを手放すだけでいいのだと。
ここに、この映画の唯一の、そして最大の解放が見て取れる。
重要なのは、ここがハッピーエンドでもバッドエンドでもないということだ。
関係は不完全なまま続くかもしれないし、終わるかもしれない。
自意識は相変わらず過剰のままだろう。
だがそれでも、説明不能な状態で世界は続く。

大九明子は、怒らない。
世界を告発しない。
社会を裁かない。
だから相手も捌かない。
その代わり、現代人がもっとも抱え込みやすいもの、
つまりは自意識という名の重力を、過不足なく可視化してみせる。
そして最後に、それと共に生きるための、最低限の距離を示すのだ。
『勝手にふるえてろ』は、こうみえてもただの恋愛映画ではない。
ラブコメ風の自意識をめぐる映画というべきだ。
そしてそれは、誰か特別な人の話ではなく、
この時代を生きる私たちの、多くに共有されている感覚の記録でもある。

だから震えは止まらない、でも、隠さなくていい。
そう勝手に、ふるえていればいいというのが答えだ。
だからこれは男子にとって、恋愛においては大いに、参考になる映画だと思う。
最初から勝ち目のない恋愛があってもいいのだ。
その思いを知った時、男たちはただ震えるしかないのだと。
その震えを隠さないことこそが成就の近道なのだと。

黒猫チェルシー 『ベイビーユー』

この映画の主題歌として流れるのが黒猫チェルシー 『ベイビーユー』。この黒猫チェルシーというバンドのボーカル渡辺大知が『勝手にふるえてろ』のよしかを追いかける“二”だということを、見終わった後で知った。当人はみうらじゅんの小説を田口トモロウ監督作品『色即ぜねれいしょん』でデビューして以来、バンドよりも俳優としての認知が高く、多くの作品に出演している。そして自ら監督までやっているぐらいだから、なかなかの人物のようだ。映画では3枚目のポジションで、常に“イチ”には敵わない存在なわけだが、ラストシーンではそれがすべて一変する。それがこの映画を単に胸キュンの恋愛映画に押し上げるかどうかは、見たものの感性次第だが、きっと、最後はだれもが渡辺大知の“二”の存在が好きになっていることだろう。この『ベイビーユー』という曲は、恋を説明する歌ではなく、説明をやめたあとに、それでも残ってしまう感情を歌った曲とでもいうべき、クルーネスのなかにも、しっかり温度を保った青春ソングに聞こえてくる。