熱烈ジャンプで学ぶ、異色の知覚ロードムービー
ギリシャ人監督ヨルゴス・ランティモスが描いた
ある意味、センセイショナルな映画『哀れなるものたち(Poor Things)』は、
フェミニズム、ポスト・ヒューマニズム、
そしてセクシュアリティの再構築が交錯する、
稀に見る荒唐無稽の異色なロードムービーである。
いや、ちょっと待って。
これって本当にフェミニズム映画なんだろうか? と思う人もいるはずだ。
僕自身、それを強く感じている。
さらには、その内容に、あからさまに嫌悪する人もいるかもしれない。
壮大なセット、色彩、構図、演出が、
過剰で、鼻につくという見方もあるかもしれない。
とはいえ、ひとまず、エマ・ストーンの身体を張った演技はすごかった。
ヴィクトリアン時代の典型的な巨大パフスリーブに、
超ミニパンツでのふわふわ歩きがなんともキュートでありながらも、
実に大胆なセックスシーンの連続に度肝を抜かれはするが、
不思議に、いやらしさや猥褻性を感じさせない内容で、
女性解放の物語というよりは、まずは想像力、
クリエイティビティの可能性に乾杯の映画であると断言しよう!
エマ・ストーンが演じるベラ・バクスターは、
死体の身体に胎児の脳を移植された再構成された、
いうなれば人の形を残した怪物だ。
その設定だけを見れば、ネオフランケンシュタイン的な話だが、
本作が行き着く先は単なるホラーでもSFでもなく、
むしろ、快楽、自由、知、そして他者との関係性を通して、
自己が自己であるための条件を問いなおす”存在論的ラブストーリーを生き
目覚めたひとりの女性の物語である。
ここでは、まずメアリー・シェリー『フランケンシュタイン』との関係をふまえつつ、
ウィレム・デフォーの怪演バクスター博士の本作における父性とベラの関係、
そして三人の男たち、ダンカン、マックス、アルフィーとの
対照的な位置づけを通じて、最終的に「哀れなるものたち」とは誰か、
という問いに、すなおにたどり着くことになる。
また、音楽やレンズといった映画的手法がどのように
身体と思考の目覚め”を映像化しているか、そのあたりにもふれながら
この映画の魅力に触れてみよう。
メアリー・シェリーによる『フランケンシュタイン』は、
生命を人工的に創り出した科学者ヴィクターと、
社会に拒絶され復讐に走る、いうまでもなく”怪物”の物語だ。
ここには、科学の傲慢さ、倫理の不在、
そして”創造主=父”と”創造物=子”との断絶が色濃く描かれている。
『哀れなるものたち』において、ゴッドウィン・バクスター博士は
いわずもがな、このヴィクターの変奏である。
ベラからはゴッドと呼ばれるも、彼はけして支配する創造主ではない。
去勢され、生殖能力を持たず、他者への暴力的支配の手段を持たない男、
いうなれば、”支配しない創造主”として描かれている。
ここにおいて、すでにフランケンシュタイン神話は反転し始めている。
バクスター博士は、愛と知をベラに与え、彼女の自立を支えるが、
決して所有しようとするわけではない。
むしろ、可愛くてたまらないのだ。
だからこそ、社会見聞のためにベラを外遊させ、
おまけに小遣いなんかを衣服に縫い込んだりする、情を持つのだ。
その愛は「神のように見えて、とても人間的」な弱さと赦しを内包した愛である。
彼の存在が、ベラの自由のために場所を譲るといった
「哀れなる神」としての役割を果たしているようにもみえる。
再生されたこの怪物ベラの旅路には三人の男が現れる。
放蕩弁護士ダンカン・ウェダバーン、医学生マックス・マッキャンドルス、
そして軍人アルフィー・ブレシントン将軍である。
彼らはそれぞれ異なる”男(権力)のあり方”として、
ベラの自己確立の過程における鏡のような存在として描き出されている。
ダンカンはベラに奔放なセックスの快楽を教える男。
そして、ありのままの世界へと導くガイドでもある。
だが彼は、女性の身体を真に”自律的な存在”としては見ているわけはない。
彼の快楽主義は直情的で、どこか空虚だ。
だからこそ、富や地位、全てをうしなったとき、彼は裸の王様としてさらされ、
ベラは彼を通じて学んだ快楽を、学習とともに捨てるのだ。
一方、マックスという医学生は、共感と観察を武器とする男である。
彼はベラに欲望をぶつけず、支配さえ放棄する。
愛という不器用な思いから、ただ静かに見つめ、寄り添う。
いわば、恋愛の“倫理的中立地帯”の表象であるのが、
それゆえに関係に決定的な変化をもたらすことはできない。
彼はベラにとって、成長を促す土壌にはなっても共犯者にはなれないのである。
男にとって、それは残酷な現実といえる。
一方、アルフィー将軍は、まさに父権主義と道徳的規範の象徴である。
彼はベラを「治療すべき存在」として再制度化しようする
近代的規範の最もわかりやすい化石だ。
ゆえに、彼女を“正常な女性”へと戻すために去勢を図ろうする。
ベラにとって、彼は世界が要求する「正しさ」の化身であり、
そこからの完全なる決別の対象となるべき存在なのだ。
事実、彼こそはベラの母親を死に追いやった仇であり、
彼女の誕生の源泉でもある。
その復讐をもって、ガチョウの脳みそをもって逆に去勢し返すという
高度な復讐を遂げるにいたるのだ。
これら三人の男を通じて、ベラは自らの快楽、愛、自由の感覚を研ぎ澄ませ、
“誰かのためにある身体”ではなく”自分のためにある身体”を再定義していく。
その過程はフェミニズムの範疇を超え、
なんともファンタジックな大人の童話になっている。
ベラの性への執着は、彼女の“異常さ”を意味しない。
むしろそれは、「自由になりたい」という切実な感情の表出であり、
「自分の身体を、自分で決定する」ための通過儀礼なのである。
ベラが歓喜する“熱烈ジャンプ”、
つまりセックスとは、彼女にとって愛の証明でも、相手への奉仕でもなく、
自らの感覚・選択・意志を素直に確認する行為である。
この世に自分が存在する確固たる理由そのものともいえる。
その執着が、仮に執念に見えるのだとすれば、
それは観客自身がいまだに「女の性」に対して
どこかでタブーや偏見を感じているからに他ならない。
性への執着とは、抑圧された存在が、
自分の存在を回復するための飽くなき実験なのである。
そして、そこにこそ彼女の知的進化があるのだ。
身体が思考する、肉体が倫理を問い、欲望が哲学になる。
その意味で、ベラは、誰よりも進化した人間としての成長譚がみてとれる。
『哀れなるものたち』で体験する視聴覚的要素は、
確かに、そうした性の解放と無縁ではない。
音楽とレンズという、この二つの重要な映画的要素が、
ベラの“世界認識の変化”を見事に可視化・可聴化していることを
いやがおうにも、突きつけられることになる。
ジェルスキン・フェンドリックスによる、不穏ながらもどこか郷愁に満ちた音楽は、
メロディというより音響的装置であり、
ベラの感覚世界の変化を追体験させることに成功している。
最初は静かで抽象的な響きが、
ベラの欲望が膨らむにつれて肥大化し、音の密度が増していく。
セックス、食事、旅、怒りといった身体的経験のたびに、
音もまた彼女の内部世界とシンクロしながら、
ときにその音は増幅され、ときにふと消失する。
それらは彼女の”思考する身体”を、観客の感覚として共振させるのだ。
また、ロビー・ライアンの撮影による魚眼レンズの使用は、
視覚の「異常性」を祝福する試みでもある。
ベラの未成熟な脳による世界の歪みは、
湾曲した建物や過剰に膨らんだ顔として表現される。
これは単なるスタイルではなく、”成長途上の知覚”の視覚化なのである。
視点の歪みは、「誰の目が正しいのか?」という問いを私たちに突きつけ、
画面の端にいる“社会の外れ者たち”への視線を強調している。
つまり、魚眼とは、ベラが世界を知覚する方法であると同時に、
観客自身の偏見を映し出す鏡でもあるのだ。
では、タイトルの「哀れなるものたち」とは、誰のことなのか?
それは一見、ベラのような逸脱者、
欠陥をもった者たちを指しているように見えるかもしれない。
しかし、映画が進むにつれ明らかになるのは、ベラこそがもっとも自由で、
もっとも勇敢で、もっとも未来に開かれた存在であるという事実だ。
むしろ”哀れなるものたち”とは、以下のような人々である:
自分の欲望を語れない者であり、
他者の選択を支配しようとする者であり、
権力に安心し、倫理に寄りかかり、愛において無力な者であり、
自由を恐れ、身体を恥じる者。
それらが、男の欲望のなかに、組み込まれてベラの前に現れるのだ。
つまりは、ベラという怪物に近づいてくるすべての男たちの総称といっていい。
あるいは、社会の偏見であり、秩序であり、幻想そのものなのだ。
ベラは、こうした”哀れなるものたち”を次々と超えていくことで、
自分自身を獲得するに至る。
彼女は最終的に、被造物でも、愛人でも、娘でも、誰かの理想でもない、
“自分の物語を生きる女”へと成長する。
それは勝利である。
『哀れなるものたち』は、ベラという特異な存在を通じて、
私たちに”自由とは何か”を問うている。
身体の欲望を誰のものにするか?
愛するとはどういうことか?
創ることと所有することの違いとは?
映画のなかで哀れなのは、性を恐れ、欲望を押し殺し、
他者の自由に耐えられない者たちである。
そう考えると、ベラの性への執着、成長、飛翔は、単なる解放の物語ではない。
それはむしろ、私たちすべてが持つ“哀れさ”を直視し、
そこから目を逸らさずに自分自身を創りなおすという、
自由へのエチュードそのものである。
これをフェミニズムの観点から斬ることはあまりに短絡的なのである。
ベラはなにも哀れではない。
むしろベラをめぐる哀れであるものたちを通じて、
誰よりも自由になる物語だ。
この映画の、あらゆる装飾はそのための布石である。
そしてぼくらは、彼女の旅を通して、
男たち、あるいは、その古臭い脳髄をもつものたちに
自分自身の“哀れさ”を見つめ直す機会を与えているのだ。
それは、苦く、眩しく、そして美しい映画体験なのである。
Jerskin Fendrix – Bella | Poor Things (OST)
映画を見終わったあとに、このOSTだけを聞き直すと、また新たな発見、感動がある。このなんともいえないこの不思議な音響が耳から離れないのだ。1990年代ロンドン生まれのジェルスキン・フェンドリックスという音楽家のことは、この映画を通じて知ったのだが、不協和音や奇怪な転調やスラップスティックなシンセを多用、あるいはリズムやメロディに定型がなく、むしろ語りに近い音の彫刻としての、身体性とユーモア、憂鬱と官能が入り混じる“語りかける音楽”とでもいえばいいのか、実にイマジナリーに響くのだが、ベラという存在そのものが、過去に属さず、まだ定義されていない“新しい人間”として描かれているこの映画『哀れなるものたち』に沿って、そこに“情動を操る旋律”を持ち込まず、音楽自体が「映画的戯画」としても十二分に機能しているところがすごい。
かつてモダンジャズを、JJこと植草甚一は「皮膚芸術」だと称したが、ここでのジェルスキン・フェンドリックスの音は、「内臓芸術」として成立している。つまり、皮膚の下の臓器のなかで、ざわめく神経たちの会話であり、感情の抑揚ではなく、感覚の生起そのものとしての音楽だといえようか。
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