遺作

囚われの女 1968 アンリ=ジョルジュ・クルーゾーアート・デザイン・写真

アンリ=ジョルジュ・クルーゾー『囚われの女』をめぐって

映画のタイトルは『囚われの女』。 アンリ=ジョルジュ・クルーゾーの遺作である。 いったい、女はなにに囚われているというのか? 見終わった直後に、すぐには答えられない。 が、確かにおかしな女である。 こどもっぽさと女としての可愛らしさを同居させながらも、 なぜだか一人空回りばかりしている情緒不安定な女だ。 奇妙といえば、映画そのものが奇妙なまでに、視覚の刺激に満ち満ちており、 まずはそこに囚われることで、われわれも何かに囚われ 最後まで救いなき運命を辿る女ジョゼにつきあうことになる。

リスボン特急 1972 ジャン=ピエール・メルヴィル文学・作家・本

ジャン=ピエール・メルヴィル『リスボン特急』をめぐって

傑作『サムライ』を覆う渋いブルーを彷彿とさせるかのように この『リスボン特急』のオープニングの銀行襲撃の際にも その同じ気配を漂わせるこのメルヴィルブルーのただならぬ気配に、 この映画もまた、遺作にして傑作へと導びかれるのか、と期待に胸を膨らませるも、 残念ながら、この映画はそれまでのメルヴィルらしいキレが不足していることに 次第にトーンダウンしてゆく。 ある種の失望を覚えながらも、こうして追悼の意を示すが如く 諦観せざるをえない思いから綴っている。

ラルジャン 1983 ロベール・ブレッソン映画・俳優

ロベール・ブレッソン『ラルジャン』をめぐって

カネは天下の回りもの、人の手から手へと移り行く媒体であり、 いわば、人の間をしらないうちに媒介するウィルスのようなものかもしれない。 ロベール・ブレッソンの遺作、その名も『ラルジャン』もまた 今は無き、そのブレーズ・パスカル旧500フラン紙幣にノスタルジーをそそられながら 1枚の贋金が一人の青年を狂わせることになる貨幣の寓話だ。 アンドレ・ジイドによる小説『贋金つくり』が書かれた国、 フランスのパリを舞台にした現代版の寓話には その硬質で静謐な映像の中に、人間の変質、社会の冷酷、 そして神の沈黙という大きなテーマが、ほとんど不可視の形で織り込まれている。 トルストイの短編『にせ利札』を原作としながら、 ブレッソンは、この道徳的物語を説教臭く描くことを潔く拒絶する。 ひたすら無表情なカメラと、モデルと呼ばれた素人俳優たちによって、 まるで機械が悪を運んでいくかのような、非演技的における“構造の悲劇”を描き出し まさに贋札づくりに欠かせぬ、確かで完璧な職人芸が支えるこの映画は いみじくも職人ブレッソンの「シネマトグラフ」に傑作を残し終わりをつげた。

乱れ雲 1967 成瀬巳喜男映画・俳優

成瀬巳喜男『乱れ雲』をめぐって

成瀬巳喜男による遺作『乱れ雲』は 一見よく似たタイトルの傑作『浮雲』ほどにドロドロとした男女のもつれこそないが 名匠これにて完、まさに万感の思いの込められたラストが実に感慨深い。 いうなれば、ハッピーエンドには至らないが その過程を見守るだけのメロドラマ、である。 男と女がそこにいるだけで、絵になるのだが、 それが全くくどくもなく、どこまでもさりげないのが味である。 最後にして大傑作、とまであがめたてまつるつもりもないが 最後まで“らしさ”を失わず、匠の集大成ここにあり、 これぞメロドラマの名匠ダグラス・サークに匹敵する名作であり 成瀬恋しやたる、実に名残惜しい遺作として それを謳いたくなるほどに、この『乱れ雲』が愛おしい。

秋刀魚の味 1962 小津安二郎映画・俳優

小津安二郎『秋刀魚の味』をめぐって

そんな『秋刀魚の味』は、見方を変えればほんのり苦い。 そしてそれこそが、小津が教えてくれた、人生の味そのものなのだ。 娘を嫁がせて、式服のまま 守るも攻むるも鋼鐵の〜と軍艦マーチを口ずさみながら ひとりちゃぶ台でこっくりこっくり船を漕ぐ父親。 そこからの空ショット、階段、そして娘のいない部屋へ 最後はやかんからコップに水を入れゴクリ。 うなだれた姿の哀愁で映画は終わる。 失ったものと、まだ手元にあるものと、 そして、これから失うであろうものすべてを、 静かに愛おしむことができる余韻が広がっている。

ヤンヤン夏の想い出 2000 エドワード・ヤン映画・俳優

エドワード・ヤン「ヤンヤン夏の想い出」をめぐって

エドワード・ヤンが志半ばで遺した『ヤンヤン 夏の想い出』 原題『Yi Yi: A One and a Two』の響は、その副題の通り、 まるで人生という音楽が静かに始まるリズム、掛け声のように入ってくる。 結婚式で始まり、出産、そして最後は葬儀という、 およそ、だれもがたどる人間の生の営みのアウトラインが敷かれている。 ひとつ、そしてふたつ、その道程。 短くも、だが決して軽くはないひとつひとつのドラマ。 ヤンが最晩年に至ってたどり着いたそのリズムは 雄弁な言葉やドラマティックな事件ではなく、 日常のなかにそっと忍び込む影のような問いかけであり 観る者の胸にじんわりと染みわたる家族の群像風景である。

欲望の曖昧な対象 1977 ルイス・ブニュエル映画・俳優

ルイス・ブニュエル「欲望の曖昧な対象」をめぐって

物事が成就する事を、唐突に中断させるのはお手の物、 簡単にできるであろうことができなくなる可笑しさ。 蛇の生殺しのような寸止め状態、 そんなシチュエーションを意地悪く愉しみながら 観るものを不安にさせるような演出がお好きなようで、 『皆殺しの天使』では部屋から出られなくなったり 『昇天峠』ではバスがなかなか目的地につかなかったり 『ブルジョワジーの密やかな愉しみ』ではなぜか食事にありつけなかったり、 そしてこの遺作にて傑作たる『欲望の曖昧な対象』では、 目の前の女をついぞモノにできず 性に翻弄されてしまうという展開に、やきもきさせられる。 それにしてもブニュエルという人は真面目にふざけるひとである。

トリコロール/赤の愛 1992 クシシュトフ・キエシロフスキ映画・俳優

キエシロフスキ『トリコロール/赤の愛』をめぐって  

キエシロフスキによるトリコロール三部作 その最終章を飾るのが「赤の愛」。 ここでは一度失った愛の形を取り戻す過程が描き出されている。 その色からも、“博愛”と言うテーマで描かれてはいるのだが、 ラストのサプライズシーンを含め、 遺作として全てを包み込むような集大成の思いが強く感じ取れる。