ジュリエッタ・マシーナ小論法
ミューズであることの孤独と永遠 ぼくが愛してやまない映画作家、フェリーニの妻でありミューズであったジュリエッタ・マシーナが、そのフィルモグラフィのなかで彼女が出演している作品はさほど多くはない。おまけに、いつも、どこかバ...
映画・俳優ミューズであることの孤独と永遠 ぼくが愛してやまない映画作家、フェリーニの妻でありミューズであったジュリエッタ・マシーナが、そのフィルモグラフィのなかで彼女が出演している作品はさほど多くはない。おまけに、いつも、どこかバ...
映画・俳優ぼくと、ここで取り上げる女優たちとの間には そんな酷薄的な距離がある。 高嶺の花として、それは手は届かぬが、いつも心内にあり、 スクリーンを通してのみ、存在するロマンティックな思いである。 妄想であり、盲信かもしれないし、単なる美化なのかもしれない。 でも、それでいいのだ。 それがいいのだ。 現実には夢はない。 それこそがスクリーンならではの夢であり、 ぼくが描く酷薄的女優論そのものなのである。
特集「好きな俳優のいる映画をみて、その好きさ加減について 想いを馳せながら他愛も無いことグダグダ書く」シリーズ、 前回の邦画編に引き続き、第二弾は洋画編を書いて見たいと思う。 普段、特に、邦画洋画を意識してみることなどないのだが、 やはり、体系化した方が、何かと整理しやすい、ということだ。
映画・俳優バカな子ほど可愛いと言うが、 それは女にも当てはまる。そんな話をしよう。 所持金欲しさに、のっけから恋人だと思い込んでいた男に裏切られ、 いきなり川に突き落とされる散々なカビリアが 子供達に助けてもらった恩すらも返さず、 とにかくどうして自分はこんなに不幸なのかとプンスカプン。 その人生を目一杯呪いながら、 親友や神や聖母にまで悪態をつく始末。 言うなれば哀れな女であり、 このイタイ女の物語がこのフェリーニの『カビリアの夜』の骨子である。