ジャン=ピエール・メルヴィル『サムライ』をめぐって
まあ、そのあたり個人差があるだろうが 当時なら、十中八九、ドロンはまずその代名詞だった。 そんなイケメン俳優アラン・ドロンのことを思ってみる。 ふとメルヴィルの『サムライ』をみて ドロンという俳優が単に美貌だけで 世の羨望の眼差しを受けていたわけではないことを改めて理解した。 やはり、ちょっとオーラが違うのだ。
まあ、そのあたり個人差があるだろうが 当時なら、十中八九、ドロンはまずその代名詞だった。 そんなイケメン俳優アラン・ドロンのことを思ってみる。 ふとメルヴィルの『サムライ』をみて ドロンという俳優が単に美貌だけで 世の羨望の眼差しを受けていたわけではないことを改めて理解した。 やはり、ちょっとオーラが違うのだ。
ある意味、時間が止まった世界の住人として見かねない先入観から 逃れえないといえるノスタルジーを引きずっているかもしれない。 それでもそれぞれに受けた印象は、時代を経て刷新されはするものの、 その感動や印象がけして色あせることなどないのだ。 今見ても、何かしらの発見や驚きがあり、感動がある。 そんなスクリーンを通して伝わってくる作り手たちの魅力的な空気を 言葉のみで伝えるには限界があるとはいえ、 できる限り埋めうるものを中心にカタチにしたにすぎない。 これは後生大事にしまってあるガラクタの宝石箱からの発信であり 美化しようというよりは、その魅力をただ伝えたいだけなのだ。
メルヴィルの『仁義』が、どうして赤いシリーズなのか? それは原題が『Le Circle Rouge』、直訳すれば「赤い輪」だからである。 単にそれだけのことだが、肝心のその赤い輪とはなんぞや、というと 映画の冒頭のクレジットで、メルヴィルはこう引用する。 「人はそれと知らず再会するとき、各々に何が起ころうが、異なる道を進もうが、赤い輪の中で出会うことが必然である」 これはラーマクリシュナが聞いたブッダの言葉とされている。 ようするに、人は知らず知らずに出会ったとしても 一度運命の輪のなかに入ってしまえば、 その繋がり(縁)からはけして逃れられないのだと。