ジャン=ピエール・メルヴィル

恐るべき子供たち 1950 ジャン=ピエール・メルヴィル文学・作家・本

ジャン=ピエール・メルヴィル『恐るべき子供たち』を視る 

コクトーは文学史的にも映画史的にも、 はっきりとした位置づけの難しい作家だった。 本人は、詩人の血の下に、あらゆる創造メディアを駆使しながら、 詩の世界に戯れ、その世界で才能を発揮し、 今のマルチクリエーターの走りとしての認識も高い。 ある意味、属性なき作家として、その名を刻んだ自由の人だった。 『恐るべき子供たち』には、その奔放な男遍歴から毒好み、 そして生涯抱えていた死の観念といった禁断の世界の片鱗が コクトーの美学として随所に貫かれている作品だ。

リスボン特急 1972 ジャン=ピエール・メルヴィル文学・作家・本

ジャン=ピエール・メルヴィル『リスボン特急』をめぐって

傑作『サムライ』を覆う渋いブルーを彷彿とさせるかのように この『リスボン特急』のオープニングの銀行襲撃の際にも その同じ気配を漂わせるこのメルヴィルブルーのただならぬ気配に、 この映画もまた、遺作にして傑作へと導びかれるのか、と期待に胸を膨らませるも、 残念ながら、この映画はそれまでのメルヴィルらしいキレが不足していることに 次第にトーンダウンしてゆく。 ある種の失望を覚えながらも、こうして追悼の意を示すが如く 諦観せざるをえない思いから綴っている。

LE SAMURAI 1967 Jean-Pierre Melville映画・俳優

ジャン=ピエール・メルヴィル『サムライ』をめぐって 

まあ、そのあたり個人差があるだろうが 当時なら、十中八九、ドロンはまずその代名詞だった。 そんなイケメン俳優アラン・ドロンのことを思ってみる。 ふとメルヴィルの『サムライ』をみて ドロンという俳優が単に美貌だけで 世の羨望の眼差しを受けていたわけではないことを改めて理解した。 やはり、ちょっとオーラが違うのだ。

log_vol38映画・俳優

ロピュマガジン【ろぐでなし】vol.38 忘れじの刻印、フランス映画特集

ある意味、時間が止まった世界の住人として見かねない先入観から 逃れえないといえるノスタルジーを引きずっているかもしれない。 それでもそれぞれに受けた印象は、時代を経て刷新されはするものの、 その感動や印象がけして色あせることなどないのだ。 今見ても、何かしらの発見や驚きがあり、感動がある。 そんなスクリーンを通して伝わってくる作り手たちの魅力的な空気を 言葉のみで伝えるには限界があるとはいえ、 できる限り埋めうるものを中心にカタチにしたにすぎない。 これは後生大事にしまってあるガラクタの宝石箱からの発信であり 美化しようというよりは、その魅力をただ伝えたいだけなのだ。

Le Circle Rouge 1970 ジャン=ピエール・メルヴィル映画・俳優

ジャン=ピエール・メルヴィル『仁義』をめぐって

メルヴィルの『仁義』が、どうして赤いシリーズなのか? それは原題が『Le Circle Rouge』、直訳すれば「赤い輪」だからである。 単にそれだけのことだが、肝心のその赤い輪とはなんぞや、というと 映画の冒頭のクレジットで、メルヴィルはこう引用する。 「人はそれと知らず再会するとき、各々に何が起ころうが、異なる道を進もうが、赤い輪の中で出会うことが必然である」 これはラーマクリシュナが聞いたブッダの言葉とされている。 ようするに、人は知らず知らずに出会ったとしても 一度運命の輪のなかに入ってしまえば、 その繋がり(縁)からはけして逃れられないのだと。