『デヴィッド・リンチ:アートライフ』をめぐって
カルトの帝王こと、デヴィッド・リンチが亡くなって、 日に日にその喪失感を募らせている。 その作品を通して、いろいろリンチに思いをはせてはいるのだが、 あらためて、その作品の持つ奥行きの沼にはまってしまった人間なら だれもがその頭の中の一度は覗いてみたくなる、 そんな魅力的なアーティストの死に、 この一つの時代の終わりを、ここに、静かにみつめてみようと思う。
カルトの帝王こと、デヴィッド・リンチが亡くなって、 日に日にその喪失感を募らせている。 その作品を通して、いろいろリンチに思いをはせてはいるのだが、 あらためて、その作品の持つ奥行きの沼にはまってしまった人間なら だれもがその頭の中の一度は覗いてみたくなる、 そんな魅力的なアーティストの死に、 この一つの時代の終わりを、ここに、静かにみつめてみようと思う。
絵を描くことは実に楽しい時間なのだが、 それと同時に、他人が描いた絵を見るのも、 これまた楽しいものである。 人間の個性とはつくづく、その人にしか宿らないことを教えられる。 絵は言葉とは違うものの、それでも人間性が如実に現れる。 アートとひとことでいっても、落書きもあれば、ファインアートもある。 また、コテコテの現代美術やコンセプチュアルアートまで、実に多種多様だ。 それこそ名の知られた画家の作品はいざしらず、 近頃では、素人画家や日曜アーティストにとって、 表現の場はいくらでもあるし、そのメディアもさまざまである。 デジタルを使えば、瞬間的なアートがその場で生成されてしまう時代だ。
絵を眺めるように、映画を読む。 挟まれる原爆の写真、精子のような動きの物体。 穴の開いたベッド、そして何よりも気味悪がられた魚のような赤ちゃん。 そしてぶつぶつおたふくのラジエーター女子。 で、なんといってもイレーザーヘッドの主人公ヘンリー。 どれもが異様な雰囲気を醸して見るものに不安を掻き立ててくる。 映画としての感性よりも、リンチの想像力への衝動の大きさが 映画をある種の方向性を導く強力なベクトルになっているがわかる。 絶えず響いてくるインダストリアルなノイズの効果もある。 あまりにも実験的だ。
なかにはカルトオブキングな作品、 つまりその筋では誰もが知る人気カルトもあれば それってそこまでカルトじゃないじゃん、というケースもあるかもしれない。 いずれにせよ、独断と偏見に満ちたB級映画を あまり小難しくならず、できるかぎり、軽やかに語ってみたい。 B九の醍醐味は、理屈では計り知れないのだ。 とはいえ、相手はくせ者だ、ならずものである。 そんな簡単に扱えるような代物じゃない。 えてして、こちらが過剰に反応してしまって、 あることないこと、語り尽くしてしまうことになるかもしれないが そこはひとつ、ご愛敬として勘弁願おう。
ジョン・キャロル・リンチ監督の初監督作品『ラッキー』は まさに掘り出し物だった。 劇場で観終わった後に、久々に純粋な映画体験として 幸福な気持ちに包まれた映画だった。 監督のデヴュー作が主役ハリー・ディーン・スタントンの遺作とが 重なってしまったという運命的なオマケがついているわけだが、 そんなことより、隣の誰彼構わず、良い映画だから観てみてよ、 と思わず吹聴せずにはいられない愛すべき映画だ。