誘拐報道 1982 伊藤俊也映画・俳優

伊藤俊也『誘拐報道』をめぐって 

だが、昭和の時代には定番というべく、よくあったものだ。 テレビドラマにおいてもしばし登場した定番の“ネタ”である。 誘拐もの、というと、映画では真っ先に黒澤の『天国と地獄』を想起するが 伊藤俊也の『誘拐報道』も濃さじゃ負けてはいない。 実際にあった1980年の宝塚市学童誘拐事件から、 読売新聞大阪支社の社会部のドキュメンタリーを原作に映画化されたが、 「女囚さそり』シリーズで名を馳せた伊藤俊也が 本作に熱を入れ「なんとしても」との思いから企画が実現したという経緯がある。

「仁義なき戦い・広島死闘編」1973 深作欣二映画・俳優

深作欣二『仁義なき戦い・広島死闘編』をめぐって

いみじくも大友はいった。 「ワシらうまいもん食うての、マブいスケ抱く、そのために生まれてきとんじゃないの」 まさにそうした生と死の側面が各々ギリギリのところでしのぎを削り、 どっちへ転ぶか、明日なき日々を送る群像劇。 行き着く島なくそうしたやりとりが 究極のエンターテイメントとして描き出される。 『仁義なる戦い・広島死闘編』は掛け値なく傑作だ。

子連れ狼 三途の川の乳母車 三隅研次 1972サブカルチャー

三隅研次『子連れ狼 三途の川の乳母車』をめぐって

ちなみに原作からは「八門遁甲の陣」と「虎落笛」が 換骨奪胎されとりこまれこの一話を形成している。 漫画にはないダイナミズムと映画ならではの ロマンティズムが交差する『子連れ狼 三途の川の乳母車』。 色褪せぬ半世紀前のエンターテイメント、 とはいえ、とにもかくにも痺れる映画なのである。

他人の顔 1964 勅使河原宏文学・作家・本

勅使河原宏『他人の顔』をめぐって

文学と映画というのは、基本、似て非なるものであるが 映像化されても、その中身が害われず むしろ、視覚的な魅力が加味されて新たなる傑作然として 今なお記憶に刻み付けられているのが『砂の女』であったが、 その作品を映画化した勅使河原宏によって またしてもこの『他人の顔』も原作の妙味を残しつつも、 映像言語としての面白さを引き出し、 新たな発見を見せてくれた作品として、忘れがたい記憶を刻んでいる。 いずれも安部公房の小説があらかじめ映像を意識して書かれたように思えるし、そこを加味し脚本をアレンジしているのもミソだ。

お早よう 1959 小津安二郎映画・俳優

小津安二郎『お早よう』をめぐって

ここから本題、まず『お早よう』の冒頭では、 いきなり、このシーンから始まるのだ。 もっとも、演者は子供たちである。 学校からの帰り道の土手で、子供達が おでこを押すと、ブッだの、プーだの、 “おならマシーン”になった学童たちが得意げになるというシーンが なんともおかしいのである。 小津流のギャグである。 このギャク、途中で「軽石飲んでるか?」というセリフからも、 あきらかに野田高梧と小津安二郎のコンビが 先の上方落語から着想を得ているのは間違いないだろう。 なんとも洒脱である。

隠し砦の三悪人 1965 黒澤明映画・俳優

黒澤明『隠し砦の三悪人』をめぐって 

しかし、そこには黒澤流のテーマパークならぬ 様々なエンターテイメントの導線が張られている。 笑わぬ姫でさえ嬉々と踊る火祭りなどはその最たるものだが、 そこは細々した説明を省くとして、 絶えず、的確な判断と勇敢な行動力を駆使して 一行を力強く先導するアニキ六郎太に、 「右といえば左左といえば右」と言うわがままかつ手に負えぬがゆえに オシとして同行させることになった姫の視座こそが 物語の表のベクトルを提示している。 つまりは、潔さであり、一貫性であり、正義そのものである。

鈴木清順 1964 「肉体の門」映画・俳優

鈴木清順『肉体の門』をめぐって

原作田村泰次郎からの映画化『肉体の門』を何十年ぶりかで見た。 以前観たのは映画館ではなく、確かローカルなテレビだったような気がする。 テレビで清順を眺めいるというのは気楽だが少し物足りない。 映画館の闇に身を置けばより楽しめるのは言うまでもないだろう。 その活劇では、泣く子も黙る清順節にグイグイ引っ張られるが 後期に見せたキテレツかつ人を食ったような、視覚第一主義とは一味違う。 いわば清順鈴木流リアリズムの追求はストレートに目につき刺さる。

【ろぐでなし】vol.35 日本のソコヂカラを託して 映画特集映画・俳優

ロピュマガジン【ろぐでなし】vol.35 日本のソコヂカラを託して 映画特集

最近の映画を見ていると、構造が複雑なものが増えたように思う。 ストレートでシンプルなものは少ない。 テーマも多岐にわたり、それによって時代を意識せざるを得ない感覚に捉われる。 かつて、あるいは過去にとらわれてばかりもいられないが、 良き日本のことを忘れたくもない。 この流動的で、変化に富む現代において、 時代を照らし出す映画というものを通して いまいちど、日本人の誇り、そして素晴らしさを再確認したい、それだけだ。