ロピュマガジン【ろぐでなし】vol.45 空想巡回映画館 ただいま上映中
やはり、秋はいい。いいのだ、秋。 そんなことを静かに噛み締めながらも、 やはり、モノには道理、そして移ろいがあり、 それを感じることは幸せなことであり、 それを感じ取れる日本という国が年々愛おしくなっている。 幸い、ようやく、不穏な空気、気配が開けそうな世の夜明けを横目に 希望のわく、そんな思いと、少し憂いを滲ませるという相反する 複雑な思いもかくさずに、サウダージな詩的なひとときを 言葉に託したいと思う。
映画・俳優やはり、秋はいい。いいのだ、秋。 そんなことを静かに噛み締めながらも、 やはり、モノには道理、そして移ろいがあり、 それを感じることは幸せなことであり、 それを感じ取れる日本という国が年々愛おしくなっている。 幸い、ようやく、不穏な空気、気配が開けそうな世の夜明けを横目に 希望のわく、そんな思いと、少し憂いを滲ませるという相反する 複雑な思いもかくさずに、サウダージな詩的なひとときを 言葉に託したいと思う。
映画・俳優よって、ジェームス・ホエールの『フランケンシュタイン』を、 ただの古典ホラーといって片付けてはもともこもない。 その核心には、稲妻が死体を打つ瞬間よりも、 怪物のゆっくりとした“まなざし”、 内なる感情のゆれを見つめていていたい瞬間があるからだ。 怪物は、怪物として、すでに誕生した瞬間から 世界にとっての“異物”として扱われることを余儀なくされる。 しかも脳のなかみは象徴的なまでに粗暴な殺人者のそれ。 実のところ、彼はまだ何も知らないし、なにもしでかしてはいないのだ。 そこには善悪も、暴力も、恐怖もない。 むろん、企みや野望も持ち合わせてはいない。 いわゆる赤ん坊そのものである。
音楽だんだん昼が短くなってきたと痛感する今日この頃。 まだまだ冬は来てほしくないと思うのだが、 昼間の暖かさから、我に帰るかのように、 朝夕のぐっと冷え込んだ温度に、なぜだがほっとするのはなぜだろう? 昼に聞く虫の音と夜のそれではまったく違うのだ。 どこか、太古の記憶さえ地続きで引っ張り出されそうなほどに 秋の夜は、どこか記憶の奥深くに通底しているように思えてならない。
音楽だんだん昼が短くなってきたと痛感する今日この頃。 まだまだ冬は来てほしくないと思うのだが、 昼間の暖かさから、我に帰るかのように、 朝夕のぐっと冷え込んだ温度に、なぜだがほっとするのはなぜだろう? 昼に聞く虫の音と夜のそれではまったく違うのだ。 どこか、太古の記憶さえ地続きで引っ張り出されそうなほどに 秋の夜は、どこか記憶の奥深くに通底しているように思えてならない。
音楽秋の午後。色とりどりの街並みをながめながら、散歩する。 太陽は近くにある友ではあるけれど、やがてはサヨナラをいわねばならない。 あなたはその瞬間、瞬間になにを思うだろうか? どんな色を重ねるだろうか?
音楽まずは、目覚めて、コーヒーを淹れて、そして音楽をかける。この流れに見合う十曲をというコンセプトで。朝という一日のはじまりを共にする音楽といいかえてもいい。
文学・作家・本11月25日、この日がいったい何の日か、 即答出来る日本人もだんだん少なくなってきたのではないかと思う。 かくいう自分もその日の出来事があった当時のことは 生まれていたとはいえ、認識は随分遅かった。 こどもに到底理解できるような話でもないわけだが、 まさに、歴史上の出来事として、無視することはできない 昭和の忘れざる一日であることは間違いないところ。
映画・俳優なんども観ても、この作品は素晴らしく、そして凄い。 戦争の茶番劇、メロドラマだとして甘くみるならば たちまち大火傷してしまうことになるであろう、 まさに愛をめぐる映画として胸打つ傑作である。 愛の純粋性が、狂気と表裏一体であることが核として描かれており それは表層の戦争批評への眼差しにもかぶってみえる。 が、テーマはそこにはない。 圧倒的なまでに、女の意志がみなぎっているヒロインで、 そこが彼女の本質ではないかと直感するがゆえに より、感動的なまでに感銘を受けてしまうのだ。 そんな『清作の妻』について書いてみたい。
アート・デザイン・写真フランス人SF作家ステファン・ウルの原作『オム族がいっぱい』を元に、 ローラン・トポールのシュールレアリスティックな絵を ルネ・ラルーとともに映像化したカルトアニメーションである。 そして全編を覆うアラン・ゴラゲールのプログレ的電子サウンドによって、 なお一層カルト色を強めている。 我が国では宮崎駿などが多大な影響を受けており、 支配/被支配の構造、知識の取得・転用の描写、 他者性・異種存在から解放/共存といったテーマの流れは 『風の谷のナウシカ』にも顕著にとりこまれている。 元祖『進撃の巨人』などというキャッチが踊るが、 どちらかといえば、中世の異端画家ヒエロ二ムス・ボスが描いた 『快楽の園』の世界感にも比較され、そのほうが理解しやすいかもしれない。
アート・デザイン・写真食べ物を粗末にするな、とは 日本人なら、むかしからよくいわれてきたことである。 テレビ番組などで、食べ物を使ってふざけ合うコントのようなシーンを放映すると 必ずクレームが入ったとはよく聴く話。 そうしたモラルの是非はおいておくとして、 それが芸術なら許されるか? という点において、 今回、そこを問題提起したいわけでもなく、 ひたすら、その世界観に魅せられるという想いから、 純粋に写真家今道子による作品について、触れてみたい。

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