ちょいとうふふな子どもの絵本。絵本といって、物語がかたられるのではない。絵とて、ことばとて各々それぞれの個を生きている。個と個の提携による絵と本である。
つまるところ、えへんである。(阿片に似ているのかもしれないという意味で)
しかれども、そこには何がしかの新たなる情景がある。それはイマジンネーチャンというソフトが必要だ。
ことばだけでも絵だけもなしえない形。子どもたちにはいつも大人とは一線を画した領域でのたくらみがある。それは大人になってしまえば、失ってしまうものなのか、消えてしまうものなのか?
ここにはそんなこんなの大人でも子どもでもないあの不可思議にそわそわしたものたちの、なんともいえずばかばかしくも愛すべきことばたちがある。それを共有するイメージがある。
あのヒトはいきだね、などという。けれどコイキだね、とはあまり聞いたことがない。そのこいきとはなんなのかをさぐる本書。
こいき道においての第一人者といえば、この空気吸造である。ある意味では、かの九鬼周造よりもこいきにおいてはいきなのであり、そのいきの構造の域からもはみださんばかりの意気は、こいきのなんたるかをいいえてているようにおもわれる。
それは稚気、邪気、躍起のあい混合するこどもたち、すなわちこどももどきのこどもどもの魂をもつことにほかならない。
君の透明な心のガラス窓に伝う素敵な水滴を見つけたら乾杯しよう
口笛を吹くようにしてことばを吹き鳴らす。もちろん、周りの粗野な諸君には聴こえないぐらいのつぶやきがこの場合よろしい。サイレンスなノートブックを小脇に抱えて、傘もささずにぶらりと外に出る。行き先はあえて告げるまでもない。そう、常時発見する驚きの曲がり角がくれば誰だって素直に曲がるはずだから。
例えば雨の日、生粋のレインドロップスを頬張ったスキップで、と心持ち足を浮かせるような歩きかたにひとりごちてみるなんてどうだろう。あとはあの少々意地悪い雨雲大王の向こうに、僕らはただひょいと顔を出してニッコリ微笑むだけだ。そこに、太陽のしばしの休息と夜たちの忙しい舞台裏が見物できるかも知れない。
さても、こうして美しい渦巻のカタツムリを、美声の雨ガエルを、そして泥だらけの子犬たちを引き連れてことばとともに街並みを闊歩すれば、たちまち雨期をウキウキ状態に変えてしまうことができるというわけ。
とりあえず、心だけはいつだって身軽にしておきたいもの。そうすれば、ことばの軽さのなかにもエレガントで愛らしさの響きでもって、そう、まるでなんでもかんでもが可笑しくて、愉しかった「あの頃」に知らぬまに滑り込んでいくことだろう。
ひとまず、冷や汗でもない、涙でもない、君の透明な心のガラス窓に伝う素敵な水滴を見つけたら乾杯しよう。夏の太陽に、そいつを横取りされる前に
空気吸造 「こいきな生き方」より
東大一直線
またもや東大に落っこちました
どうだい、この連敗記録。
もーいや、もういいや・・・
馬鹿もん、赤門、へいカモン!
来年があるじゃないか
タラコ唇
タラコ唇箸で突き刺したら
血がタラタラ
よく見るとツブツブになっていた・・・
嘘だったら!
パ・ソコントロール
コンピュータントな人ビットは
通信カイロで知を通わせる
パ・ソコンところがヒューマンなのさ
頓珍漢
「豚に真珠」は納得するが
豚と心中は御免だね
ハイファイ・ベイビー
ハイハイ ベイビー
かわいい年頃
わがままいってもママはハイハイ
なんだっていうがまま
目を開けばなんだって驚きだよ
眼に映るものは何だって高画質さ
ハイファイアイがそこら中
ところ狭しと徘徊するよ
夏目うなぎ
どんぐり眼の子猫のぼっちゃん
お池にはまってさあ大変
そこへ現れたる夏目ウナギ
おっといけない
吾輩は猫が怖いのである
とUターン