夏の地下街
あれほどまでうっとうしく思えた、眼球にまでまとわりつくような不快感も、ここへ来てようやく拭い取られたようですね。その目の輝きをみるとわかりますよ、目をしばたかせるほどの本格的な夏の到来、どれほど心待ちにしていたかって! 空のライト・ブルー、海のマリン・ブルー。この快活な色彩をまざまざと見せ付けられちゃあ、うむ、ブルーがメランコリックな色だなんて、どの口がそんなことを言うのでしょう!
一面に塗り広げられた青い空に、夏そのものが群れなすとでもいいたげな真白い雲が、あくなきマチエールの探求に耽る画家たちを狂わせんばかりの豊かなヴォリュームで、どっしりと浮かんでいますもんね。ああ本当に夏だ。
そんな中、まだ少しカビ臭いまでに鬱積した神経はというと、殼しい太陽の放つ威厳に満ちた日光の眼差しに圧倒されながら、一刻もはやい命の洗濯を希望している、そんな感じがします。
地上の少年少女たち、一年でもっとも伸びやかでおおらかな彼ら、そこかしこであらわにその肌を香ばしく焼き上げるのに余念がありませんしね。いやぁ、夏ってどうしてこうもわくわくするんでしょうか。天然の恵に優るものはなし、とばかりこの開放的な夏、待ちに待ったアバンチュールの季節に、海へ山へと繰り出しては芋の子を洗うようにしてひしめき合う人々。わかりますよ、気持ちは。けれど、まあ、それができない連中もいるんです。いろいろあるんですよね。
それにしても世間の人々は本当に忙しそうだこと。別段無理をしなくとも汗を簡単に作り出すことのできるこの季節に、ただでさえたくさんの人影と擦れ違ってしまうというのに、人はいったい何をそんなに急ぐことがあるの、そんな風についみちゃうんですよ。急いては事を為損じるなんてこと、ここではいいっこなしってことで。まあそういうのもわかりますしね……
それにしても雨の日以外に傘がこんなに役に立つとは、近頃は紫外線の恐怖なんてことがささやかれてますもんね。まあ、お肌は大切に、なんて気にさせるビーチパラソルの活躍目覚ましい海岸、あるいは日傘のありがたさでもって一息つく人々。こちらは炎天下から少し離れたこの森林公園。いいですね、こののどかさ。さすがに見馴れた光景よりは乙です。そこでは、実は人よりももっともっと元気一杯の連中がいたり。そう、木のあるとこ木陰あり、森は動物たちの憩の場でもあるのです。
開放感があるだけに、いっそうどこかで寂しさが浮び上がるのが森林って気がするんですよ、気のせいかな? 確かにこの暑さはみんなのものです。好きなだけ味わうことが出来ます。そう、何も慌ただしいのは人だけに限ったことではないかもしれません。
プンプンした甘い匂いで味覚を刺激してくれるフルーツも、季節がら家庭の食卓に上る回数も何かと多くなりますし。
例えばスイカやメロン、白桃。ああ、思わずよだれが出てもおかしくないその響きとイメージ。これがないと始まらないって、まず目がないはずの子供たちのこの上なくいらいらするありさま、これには同情します。というのも、品格など無視し集いくる不潔な蠅軍団にこれみよがしにブンブンうるさくねだられるし、あるいはこっそりと真っ赤な血液ドリンクを頂こうという陰質な蚊娘たちが部屋中ところ狭しと飛び回って、瑞々しく弾力ある肉の丘にぷっくと赤い小山を作ろうと窺っているのですから。小さいからっていってみすごませんよ、ええ。本当に油断も隙もありません。黒い嫌われもののゴキクンたちは、カサコソと暗闇を徘徊し……そう思うだけで鳥肌が立つって?ほんと不快この上ないなぁ。
時には相変らず働き者の蟻たちが、秋口になって何を今さら、とばかりに遊びほうけるキリギリスをはじめとする怠け者たちに労働の美徳をば、さも身をもって教え諭すためとばかりに、この炎天下、せっせせっせとくまなく食べモノを捜し回って、どこから噂を聞き付けたのか、家の敷居までまたぐというありさま。ほんと、どこからくるの、あなたたち。食べ物のあるところならどこへでも行きますよ。そうですか……そんなものですよね。ご苦労さまです。
さて、こういう連中は当然それなりに領主から処罰が下されあえなく命を奪われることになります。人間の傲慢さの犠牲か、あるいは正当防衛ゆえの排斥なのか………いずれにせよ、慌ただしさゆえに足元を救われるというわけです。それとは別に、唯我独尊、純粋に慌ただしい連中はというとまだ他にいろいろいそうです。人目につかぬところで年に一度、個々にとっては何年目にして仰ぎ見ることになるのでしょうか、来たるべき晴れの舞台を控えて大変な一族、それは《静かさや 岩に染みいる……》ではじまる夏の風物、ひっきりなしに響き渡る合唱の声の主たち、とここまでくれば自然とそのシルエットが浮かび上がって来ますよね。いわずもがなのセミたちのことです。彼らはいわば静寂泥棒というだけで特に悪意はありません。そんな彼らがその凛々しき姿を我々の目にさらすまでの道のりには、一言では語り尽くせぬなみなみならぬドラマがあるということ、知ってますよね。
周知のごとく、セミというものは、わずか数十日その雄姿を披露するだけで、再び永遠という循環の中に紛れ込んで行くんですね。彼らの地上での思い出はといえば夏だけ、あの高校球児なら春もまたあるのですから。束の間のバケーション………何とも切ないではありませんか。それゆえ、彼らが時を急ぐのも判らないではありません。我々が縁側で夕涼みとシャレ込んで、流しそうめんやら掻き氷などで喉ごし感を味わおうとも、ただ大声でわめき散らすだけの彼らには、それゆえ、情緒だの、風流だのといった優雅さなぞ味わう余裕などあるわけがないのもごもっともです。
それこそ、もし蝉が鳴くことがないというのであれば、かの芭蕉の句もこの世に生まれてはいなかったわけですし、それこそ言い知れぬ不気味な夏を過ごさねばなりませんものね。想像できます? 静寂の盛夏などというものが? 赤子から産声を取り上げようというものがいるのでしょうか、いわんや誰がこの蝉たちから夏に鳴く権利を剥奪できるというのでしょう。
さて、こういう連中は当然それなりに領主から処罰が下されあえなく命を奪われることになります。人間の傲慢さの犠牲か、あるいは正当防衛ゆえの排斥なのか………いずれにせよ、慌ただしさゆえに足元を救われるというわけです。それとは別に、唯我独尊、純粋に慌ただしい連中はというとまだ他にいろいろいそうです。人目につかぬところで年に一度、個々にとっては何年目にして仰ぎ見ることになるのでしょうか、来たるべき晴れの舞台を控えて大変な一族、それは《静かさや 岩に染みいる……》ではじまる夏の風物、ひっきりなしに響き渡る合唱の声の主たち、とここまでくれば自然とそのシルエットが浮かび上がって来ますよね。いわずもがなのセミたちのことです。彼らはいわば静寂泥棒というだけで特に悪意はありません。そんな彼らがその凛々しき姿を我々の目にさらすまでの道のりには、一言では語り尽くせぬなみなみならぬドラマがあるというわけです。
こうして見ると、随分そこかしこの木の枝に地下生活の思い出の詰まった泥だらけの肌着がぶら下がっていますね。面白いのは、おのおの本当に個性があるということです。樹木の、出来うる限りの高みを求める文字どおり孤高のもの、葉の裏がわで幾匹もの同志と重なるように脱皮するもの、木などに上るまでもない、近場の草叢で用をたすもの、電信柱から軒先まで、まあ千差万別です。
ともあれ、この夏、どれほどのセミが晴れて地上の空気を吸うことになったでしょう。さらにこれからボクもワタシもと聴こえてきそな雰囲気を感じ取ることができそうな穴ボコが、そこかしこに見受けられもします。この地上の空気をいずれ味わうことになるそんな地下生活者の、ある種の儀式だった殺気がどこからともなく漂ってきて、気のせいか日中の温湿度もさらに上昇している様な気配さえ感じます。神秘の洞穴、あえてそう呼ぶひとをわたしはしりません。でもそこをあえて見つめてみたいのです。足の裏がこそばいような賑やかさで、心持ち踵を持ち上げられるかのような感じ、それこそカーニヴァル気分の熱と緊張で地中が沸き立っているなどと、想像するだけでこちらも思わず手が汗ばんでくるというものですから。
さてもいよいよここからが不思議の国への突撃潜入ルポです。というところで意識はどんどんと縮んで行くようです。ちょうど穴ボコサイズにまで辿り着くと取材開始です。まず地下街の雑踏に潜伏してみると、へぇ~とひとまず感服。以外に涼しいというのが印象ですね。ほらほら誰かが向こうからゆっくりやってくるんじゃなかろうか?ちょっとこわいな…… やぁ、やぁ、どうも、おっす、はじめまして……しばらくやってればなれましたね、百聞は一見にしかず。とりあえず、地下の体当たり取材は続行です。周りの羨望の眼差しを携えた弟分たちの祝福を受けて、アブラゼミのロドリゴはその時がやってきた、と胸をわくわくさせています。武装した堅いユニフォームの内側に立派な晴れ着を丁寧に畳み込んで、長年住み慣れた土の寄宿舎ともいよいよ今日でお別れです。でも涙はありません。そうですよね、それどころではないのです。ゆとりなどあるはずもなくとにかく必死にもなります、このときばかりは。何しろ出発をしくじってしまえば数日間のあの素敵な、これまで暗やみで夢見てきた桃色アワーが、たちまちにして決定的に絶望たるグレイアワーへと真逆様に落ちて行くことになるのですから。緊張はやむを得ません。
それゆえに、慎重に、限りなく慎重に、がこの巣穴からの旅立ちの際の合言葉になっているぐらいです。こちらもそうとう気をつかいます。といってもも皆がみな自分のことで精一杯だもので、もちろんわたしは冷静、できるかぎり冷静なつもりです。
毎年、その門出をうまく飾ることの出来ない幾名かの訃報の噂を散々耳にしているわけですから、ロドリゴの表情は慎重そのものです。目を何度も瞬かせては汗を拭うといった動作を繰り返しています。なにしろ長年座頭市よろしく光のない世界で育ったものですからただでさえ光は眩しいもの。夜間であろうとなかろうと、地下の暗さとは比べものにはなりません。ましてはこの外気………肌で感じる何かいいようもないワクワクする気持ち。さあ、全身が光に包まれるのもあと一歩です。これで終わってしまうなんて、それはあまりにも殺生ですもの、神様、仏様、諸行無情はわかりますが、ここはその、どうか彼がこの世に無事地に進み出んことを! そして空を飛翔せんことを! 人間というやつは、最後はああ幸せだったと有終の美で飾りたいと願うものですからね。
おや、成功のようです。一方じゃあらら………。まあ、情にふりまわされてはとてもやっていけません……諸行無情というやつですね。
地下もぐっと奥の方へ進むとまだどこかのんびりムードがただよっていたり。
「いいな、僕も早く青空がみたいなぁ」と今年で三年目を迎えるシロート・シェルブルは、子供がよくやる仕草で、うらやましそうに後ろ足で土を蹴っています。でも、力がまだ弱々しくひよっ子の観が否めません。まだまだ学ぶことはたくさんありますね。
「マツとか杉とかってあんまりうまくないってよ。くぬぎはうまいっていうし。アカシヤやトチ、マロニエの樹液っていったいどんな味がするんだろうな」と、同級生のグルマン・ブーシュは人一倍食いしん坊なのでよだれを拭きながらつぶやきます。彼は寄宿舎内随一といっていいほどの物知りエリートこと、ジャン・ジャック・アンテリーと仲良しで、彼から地上の話をたくさん聞かされていましたから、ついつい関心が異常なまでに膨らんでいたのです。グルマンは若い割には恰幅がよく、仲間内から早くも肥満児のレッテルをしっかりと貼られてしまっているようです。ダイエットなんておかまいなしです。いったい何を食ってるの、君ったら。さぞかし大きな穴が出来るんでしょうね!
「俺、早く外で唄いたいよ、思う存分、ネエ、外に出たいよお!」と、ちょっと小生粋な四年坊主、ラヴィ・シャンタールがおやおやワーワー騒いでいるではありませんか。彼は耳がとてもよく、いつも地上の諸先輩方の歌声が聞こえてくるので、それに随分刺激されているのです。世にでた暁には自分の咽自慢を目一杯してやろうと考えている、なかなか負けん気の強い男の子です。でもまだ彼には声帯、正式には共鳴帯というものが完全ではないので、すべては空想の産物にすぎません。シャンタールは彼ら、成人ゼミの鳴き方を半ば皮肉めいた口調で、「俺だったらもっと上手に、感動的に唄ってやれるさ」と、その自信のほどをのぞかせています。なにぶん、このぐらいの若僧には地上の諸々の苛酷さが理解できるはずもありません。
この地下寄宿舎にはいわば、世を知る先輩というものが存在しないのです。誰もがおのれの想像力と、少ない情報のやり取りだけで明日の生きる糧を見いだして行かねばならないのです。
「わずか数十日間だよ、短すぎるよ。できることなら俺はずっとこのままでいいなぁ、だって楽ちんなんだもん。ああああ」と、欠伸をしながら独り言を言っているのは、いよいよ来年にその儀式を控えたペペー・ルーです。彼は寄宿舎一の呑気もの、何事をするにも時間のかかるタイプなのですが、この通称《のんき大将》には夢もなく、目的なんかもありません。アリやハチのような集団意識があるわけではありませんから、みんなそれぞれが想いのままに生きてよいのです。生き方って? そういったって結局は外に出て、大声で鳴き、異性の注目を浴びて自らの遺伝子を残すこと、それ以外にはないのですけれど……、いやいや、そんな馬鹿なことはありませんよ、そんな風に決め込まないでくださいよ、我々だって、ほら、生きている実感があって、それぞれに愉しみ、喜びってものもあるわけですから。価値ということでは、およそ人間なんて化け物とはわけが違いましょう。でもね……はい。わかりますよ。セミったって僕らが知るのはいわば知識として、昆虫学的見地からだけですもんね、それじゃあわかりますまい。
いいんですよ、大声張り上げてそうじゃないよ、なんてことは無駄ですもの。僕らは愉しみますよ、れっきとした権利を主張しますよ、誰がなんていったってさ。
まあ、こうして話を聞くにつけ、実にイロイロ考えさせられるのです。だから、人間にいろいろいるように、セミにもいろいろいて、またいろいろな考え方があるようなのです。これには疑うべくもありません。ペペ・ルーはある意味、人間以上に人間らしい含蓄をもったセミ、なんて言い方ができるでしょうか。そんなところがおよそ、セミの中でさえ若者らしくないといわれるところです。が、こういうタイプに限って、いざそのときが来ると慌てふためいたり、我先にとばかりに真っ先に飛び出したりするものなのです。
いやはや、心配は無用でしょう。それは過去の歴史を繙いてみても、しばしば見受けられたことなのですから。まあ、その瞬間の喜びや感銘は喩えようもなく素晴らしいものだとしても、ここはひとまず経験してみなければその感動は到底想像のつくものではないそんな瞬間なのだ、とでもいっておきましょう。
さて、この辺りでずっと陰の存在に甘んじている女子連も探してみることにしましょう。でも、なかなか見当たりませんね。どうしたのでしょうか。恥ずかしがりやが多いせいでしょうか、昼寝でもしているのでしょうか? なにぶん女子は全体的にさらに言葉数が少なく、目立たないのでコミュニケーションが大変なのですよ。周知のとおり、蝉のメスは決して沈黙を自ら破ったりしないものですから、それこそは、彼女らの習性はオスとは比べものにならないほど慎ましやかなものなのも当然でしょうね。とはいえ、彼女たちだって、心のうちはイロイロああでもないこうでもないと、我々人間が思春期を迎える年頃の、あの色めきたったざわめきと何ら変わることはありません。とかく、表現法がまったく違っているというだけで………最初に出会ったのは、ヒップの大きなナイスボディなクマゼミ族のマリー・キューです。
「わたしのダーリン、どんな人かしら!」といつもうつくしき結婚を夢見ている女の子です。彼女に限らず、一般的に女子は結婚願望が強いようです。それもそのはずで、彼女たちは、このある種の伝統、歴史の中で、何が一番の美徳なのか、ということを教育されてきたのですもの。つまりは、たくさんのこどもを生んで、いかに、彼ら種族を存続させてゆくかというような、まあ生き物の性といいましょうか……なにはともあれ、卵を産むことが彼女たちの美徳なのはしかたがないこと。ところが、近頃ではたまには「あたし、そういうのいやなんだ。ひとりでいろんな木を旅して回るんだ」というアクティベート・リベルッティのような活発な女の子の声を聞くこともあります。時勢ですかね、「私たちは男たちの道具じゃないの」ということなのでしょうか、こうした問題を解決するにはあまりにも膨大な時の蓄積が必要とするのはいうまでもありません。そのことがまた彼女たちに無常の沈黙を強いらせているかのように見えてしまうんです……。
いずれにしても彼女みたいな意見は例外だと言えるでしょう。長い地下生活から限られた地上の甘い生活へと、いったところで長い歴史を繰り返してきた彼ら蝉たちの一生のサイクルに、そう変化があるはずもありません。いずれにしろ、この時期、地下寄宿舎ではどうしても未だ見ぬ世界への夢想に話題が集中するのは当然です。せいぜい好きなことを言いあって、その日がやってくるのをあれやこれやと想い描くのです。我々が知るよりも、もっともっと濃密で、ある意味ではとってもシンプルな時間。我々が成人式や結婚式なんかを経験するのとは全然比べようがない興奮度、緊張度。問題は、それは冗談ではすまない出来事、つまり生きるか死ぬかという究極の選択だということ。人間のように、もののあわれ、諸行無情などと言うことさえできないのですからね。まあ、早かれ遅かれだれもがいずれ通る道なのですから、ひとごとではない、というところで、こうした関心度は生き物として、しごく当然なのです。
そんな恒例行事であるところの真夏の黎明の旅立ちに際し、暗い視線を投げ掛けている連中が何名かいるのが少し気になるといえば気になるところでして……。彼らは体つきからしてもう立派に成長しているし、少なくとも周りの連中からすると随分と肌あいが黒ずんで見えます。どこか冴えない印象に映るのは気のせいなのでしょうか? いいえ、悲しいかな気のせいではありません。彼らはれっきとした同胞でありながら成人になることが出来なかった、いわば「闇に隠れて生きる」世捨て蝉なのです。ずっと、留年しているものいれば、途中で気が狂ってしまって、仲間から除外されてしまったものまで、一口でセミといっても様々です。
自ら成長を拒否したもの、身体的疾患によるもの、単なる時間感覚の勘違いによるもの、その他理由、原因は各自違うのですが、やはり一様に幸福ではない色の肌を覗かせていることに変わりありません。それもそのはずで、永遠に日の目を見ることなく命尽きるのを待っている連中というわけです。
「地上がなんだい、大人になんてなりたかぁねえよ」とアントワープ・ドーナルは暗い目をして吐き捨てるようにつぶやきました。彼は去年、この周辺ではひとりだけこの真っ暗な地下残留を決め込んでしまった変わり種です。なまじ、感覚が鋭すぎて非現実的な考え方故に、アントワープはこの地下という閉ざされた場所で、現実という光を見失ってしまったのです。皮肉にも、人間の目には彼のようなセミこそが地下生活者の名にふさわしく思えるでしょうが………。
「ちゃんとした羽根があったらなぁ……」といって溜息をつくのは、日頃から病気がちだったマラディーナです。当時、仲間が晴れ晴れとした目で太陽と対面するのを尻目に地団駄を踏んで悔しがったものです。それでも、地上に出たい、とはつぶやいていたのですが……恐くなったのでしょう。うまく羽化する自信がもてなかった、というのも、不幸にも彼は事故で前足を一本失い、おまけに羽根になる部分が奇形だったのです。どうにもならないことがあるものです。それでも運命は平等なのでしょうか?
「本当なら一昨年、おいらもこの感動の一瞬を迎える筈だったんだ……」と、肩を落とすのは不器用な一生の代表選手のようなマラドーワ・マヴィセアンです。性格は素直で他人にも優しいけれど、彼は自分のことを余りにも知らなさすぎた、省みなかったというなんとも皮肉な現実の前に、とうとうその一度きりの好機を見逃してしまった非運のセミなのでした。悔やんでも悔やみ切れないでしょう。そこには絶対的な教訓が潜んでいます。その他、日頃からその自分勝手で横暴な言動と振舞いによって、みんなからそっぽを向かれてしまったフーフーことブルタル・フランコは、結局、自ら自分の首を絞めた格好となってこの寄宿舎を除名されて、運悪く、モグラのあらくれ兵士にその命を奪われたのです。
ここでは最終的には自分の判断がすべてなのです。誰もその過程に口を出すものはありません。だから誰だって一度きりのチャンスを逃したくはならない思いで必死にもなります。全ては結果でしかありません。
さても、彼らのこうした歴史は誰に記録されるわけでもありません。ただ地下では数々の神話となって年月が積み重ねられて行くのみです。よりにもよってこの灼熱の季節に、木々の間をせわしなく駆け巡り、長くてほんの二十日程度のうちに生を満喫しようとするそのセミの、あまりも汗臭いドラマは、ただ個人的な感動を蝉個々が胸に秘めて、いみじくも同季節、夜空に華々しく打ち上げられる色とりどりの花火のように、束の間の栄華に浸って幕を閉じるだけです。本当のところ、実に地味で気の長いプロセスを経ての晴れ舞台だけに、各地でもっといろんなドラマが秒単位で起こっているに違いありません。
それは無限です。
さて、再びスポットライトがロドリゴに当たれば、今、まさに彼は緊張の一瞬をむかえるところとなりました。幹を伝い一歩一歩足場へと向かう足取り。身体は保護色を纏うように、緑色に変色しいよいよその時へ向かっています。静寂を本能的に選択した正しさがかえってあだになるかのように、小さなモノ音が普段以上に大きく鳴り響くようなそんな中、天敵はといえば、自らの間抜けざまか、はたまた夏休みの子供博士などです。それはそれで予断を許さない緊張感を強いられるわけです。そこへ、噂をすればなんとやら、近所の小学生、クラス一の昆虫マニア、人呼んで《セミ博士》ことのシガくんが手に網を、肩から虫かごをぶらさげて早朝の林を探索しています。ロドリゴとしてもせっかくここまで辿り着いて、やすやすと大切な日々を奪われたくはありません。
どうやら葉っぱの肌触り、しなり具合も確かだと踏んで、じっと時を待っている状態です。そうして小一時間が経過。おお、背中に自ずとメスが入り……心配をよそに背中がパカッとロケット基地のように開いて、さあ、いよいよ出陣です。ゆっくりゆっくり。見せるは誰に教わったのか、ウルトラバクテンショー。ここまでは文句のつけようがなく、十点満点でしょう。でも油断は禁物。シガくんのしつこく刻む足音に惑わされることなく、ここは慎重に、と声のない暖かな眼差しを送りたくなります。首尾よく旧衣を脱ぎ捨てて、純白の一張羅がとても眩しい梢の上。すべてが初めて触れるものばかり。汚れなき肌がじわりじわりと黒ずみ始めていく。それもすごくゆっくりと、本当に優雅に。これがあの小煩いセミなのだろうか、と思うほど静寂が染みる時刻に。
両脇に縮んだ羽が、しだいに伸びてゆく、まるで天使のようなうつくしさ。息をのみますね、圧巻です。昆虫だろうとなんだろうと、生まれる瞬間というのはなんだか言葉では言い尽くせない、ひとを感動させるには十分な要素に包まれているものです。おお、あんなに白かった肌は、ココア色にすっかり染まって……立派な大人です。自ら脱ぎ捨てた殻にしばらく止まって、呼吸を整えているのでしょうか。
そこから身を震わせて……うむ、そろそろか? 誰が時間を計るでもなく、こうして着々と段取りを一通り踏んだところで、ロドリゴ号発射のカウント・ダウンがいよいよ始まりましたね。スリー、ツー、ワン、ゼロ! 一瞬です。何物にも触れぬ空中へと至高の飛行を試みました。あっ、無事成功です。ふぅ~。われわれも一息つけます。この瞬間を夢見ていたのですね、あなたたち忍耐強い地下生活者たちは! 少なくとも情あるものなら何ともいえぬ感銘で、品よく振動を押さえた透明な拍手でも思わず空気の中に送りたくなるというものです。くれぐれも少年博士の魔の手、あるいは自然の強者たちに気を付けなくてはいけません。でも一人前の成人ゼミをつかまえて忠告するのも何かとおせっかいのような気もしないでもありませんから、それはそれ、ここはひとまず代表して、「コングラチュレーション、グッド・ラックロドリゴ!」とでもお祝いの言葉をいわせてもらいましょう。
この抜けるような青空の下で、お気に入りの《シング&サックスポット》を樹木の随所に見付けて、さっそうと飛行と着地を繰り返しているロドリゴ号。今日もまた、あの声が、あるいはその声が、そしてこの声の主が、自由を満喫しているあのロドリゴのものかも知れないと夢想して、人知れず胸が熱くなります。それからも次々と彼らの晴れのセレモニー《真夏のゼミナール》が、この夏至る所で繰り広げられ、それに伴う多数の死者、不慮の事故もなんのその、静かな夜から早朝にかけて、今年も大量の青春の花火がひっそりと打ち上げられて行くことでしょう。そして、日中散々その青春を謳歌した後、女たちは再びまた数年後の転生を地中の寄宿舎に託して、夏と共にその短いそれぞれの生涯を終えるのです。魂が抜けた抜け殻は呆気なく蟻の巣にでも運搬されるか、風の中の砂埃となるか、というお決まりのパターンで……
そう、無常なり。
さても、少しハスキーががったトーンで聞こえてくる響き、あれは蝉族真打のツクツクボウシの誰かでしょう、これは通常夏もそろそろ秒読み態勢か、という合図なのです。ああ、永遠とは何ぞや、というような真っ赤な夕日が沈んで行きます。どうやら今年もまた夏休みの宿題をやり残してしまった! と、どこぞの子供は半ベソをかいたやら、かかなかったやら、なにぶん時の経つのは早いもの。全くひとごとではありませんぞ、諸君!