ちょっとちょっと 四

髪の秘密

ある日、化粧中に彼女は突然魔に憑かれた。だが、誰ひとり叫び声を耳にしたものはいなかった。唖然とした花々の表情。どうやら、彼女たちはその現場を目撃したらしい。彼女が悪魔にうまく誘惑されるのを見たのだろうか?

 中でも、純粋な山百合はあまりの恐ろしさに、日頃の優雅な美しさが色褪せるほど蒼ざめていた。全てがあまりに突然で、身動きができない状態であった。まわりの家具や壁は普段の何倍も速く脈打った。鏡はしばし波打っていたし、どんな新しい像をも受け付けなかった。窓はこわ張って風をはねつけた。彼女を訪ねた小鳥は窓に衝突して気を失っていた。
 「ああ、見てられないわ」と、ある震える声の呟きが聞こえ、またどこかで神の名を呼ぶものもいたが、何の解決にもならなかった。まわりでは、生命のざわめきが絶句し、重い沈黙は輪のように拡がっていった。
 「口紅がはみ出していますわ」と、あるものが彼女にいった。でも、放心状態の彼女の鼓膜には「なんて可愛らしいお嬢さんなんでしょう!」と言った褒め言葉にでも聞こえていたに違いない。

 やがて沈黙が瞬きをして、雨がしくしくと降り注いだ。彼女の涙はあまりにも透明で、その中で純粋が煩悶していた。視線は凍結していた。もちろん、いつもあんなに優しく世界を映し出してみせる瞳は、硬くなったまぶたによってしっかりとはさまっていた。睫毛は影を長めに携えていた。彼女の横顔にはいつもより一層巨大な恐ろしい影が宿っていた。ちょうど、はみ出した下着のように、それは、どこか官能の匂いと子供の無邪気さとを同時に合わせ持った、痙攣的な美を纒っているようにも見えた。

 いつしか肉体は横たわっていた。髪は乱れ、瞳の所在さえ定かではないほどだった。唇は乾き切っていた。吐息は漏れた。かすかな言葉が聴こえた。誰も意味など理解できなかった。彼女はそのまま闇の中に埋もれてゆく。光のない世界へと、彼女の魂は下降してゆく。
 「もうだめだ。誰も彼女を救えはしないよ」と、希望のないかぼそい声が聞こえた。
 花々の言葉も、ミツバチの懸命の看護も、縮れ髪の天使たちの歌も彼女の耳には届かない。絶対絶命である。気絶はこのまま彼女を永遠の迷宮に連れていくのか?

 ところが驚くことに、翌朝、彼女はいつもの彼女を取り戻していたのである。もはや悪魔の忍び込んだ形跡もなく、嵐の後の静けさのように鏡に映しだされたのは、豊饒の微笑みを携え、にっこりと口紅と塗るひとりの乙女であった。透き通るような白い皮膚が陽光の祝福を受けて、彼女の血は、とてもこの世のものとは思えない美しさの中に静かに佇んでいるかのようであった。ただ、あれほどまでに大切にしていたご自慢の長い艶やかな黒髪は短く整えられ、どこかしら幼年の頃のあどけなさを漂わせていた。

 花々は呆気にとられた。涙はなかった。あるものは微笑むことを思い出し始めた。幾分爽やかな風が起こった。誰もそのことに気が付かないほど、わずかに、幽かに祝福の微風でそよいでいた。
どこからともなく、いいにおいがした。麗しい芳香だった。彼女から起こったものだった。それは髪の草原から漂っていた。
 おそらく、かつてそのような境遇にでも出くわしたことがあるのだろうか、ある美しい花が独り言のようにつぶやいたのを聞いた。
「彼女の流れるような美しい髪に魅了されて棲みついた悪魔が、髪が短くなって、たちまちいられなくなったのよ」
 するともう一輪の小さな花がこういった。
「でも誰が切ったのかしら、で、どんな風に?」