文体はエクリチュールの始まりなのである。
ロラン・バルト
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古今東西、ロピュが読んできた書の文体を、そっくり引用するのではなく、ほんの触りだけを独自の言葉に置き換えての文体練習、これいかに?
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かくかくしかじか書くという名の真実
聞いてくれ、見つめてくれ。おれたちにかまってくれ。そんな風にいっているように思えるコトバというものが聴こえてくる。ぼくはその世界に忍んで、瞬間的にそいつらに囚われてゆく。詩も小説も、会話も、歌も、演説も、ひとりごとも、そう、コトバたちの生きた“現場”なのだ。言うなれば、ぼくは彼らの仕事場を解放する、また遊び場でともにじゃれ合う。はて、あなたはどこまでもコトバが自分自身のものだと思い込んでいやしないだろうか? むしろその逆、ということを知らねばならぬ。
確かに、コトバは、いわばオブジェであり、ウイルスであり、ひとの間を行き交う独立した魂でもある。やさしくもあれば、残酷でさえある。華美であると同時に、禁欲的でもある。悪態をつく蛮人から、神の道に仕える巫女まで、コトバはいかようにも変貌する。では、かようなからくりを仕組むものはいったい誰なのか?
もちろんぼく自身さ、いやいやアナタなのかもしれないね。待てよ、そもそもが神の御技ってことかもね…
詩人と呼ばれる人、あるいはそうではない、ただの何でもない人が駆使するだれもが無償で手に入れたはずの道具。使い放題、いいたい放題。巧妙に、いや粗野に。コトバほど、近くて遠い存在はないのである。
とはいえ、コトバって不思議だ。そして面白くてかっこいい。コトバをコトバでもってほめたたえなきゃならぬ馬鹿らしさからして、なんだか可笑しいじゃないか。だがあんなに凶暴で、はちゃめちゃで、だがスマートで、こどもっぽくも、センチメンタルで哲学的な彼らときたら、掛け値無しのピュアイノセントでもあるのだ。自在にひとの間に入り乱れて、とにかく存在することをやたらに主張する。かと思えばどこまでもしおらしく、どこまでも知的に振る舞うコトバたちの自在性。ああ、君たちコトバを愛するものは幸いだ。まちがってもコトバたちに罪などない。使う側次第で武器にも凶器にもなりうるわけだから、詩人はそのことに無自覚でいられるはずもなかろう。
コトバよ、ぼくに夢を運んできてくれるコトバよ、ぼくをコトバでもって慰めてくれ、今一度励ましてくれ。時に絶望的な気分にさせてくれるコトバよ、鼓動を刻み、ヒトをみつめるコトバたちよ、ここは君たち、真の自由主義者たちに開かれた広場としよう。あるいは楽園を築こう。自由気ままに気兼ねなく存分に暴れてくれるがいい。ぼくがぼくの名において、それを見届けよう。橋渡しをしよう。
ぼくにはいまなすべきことがある。そう、ようやくコトバの錬金術を覚えはじめたところだ。有能であり、また独創的であるかとおもえば、根っからの怠け者で、凡庸的、それが人としての限界だ。そして日和見主義。されどぼくはついてゆくよ、地の果てまでも、宇宙の果てまでも、どこまでもきみたちコトバたちに誓って。
コトバはわが師。ここはコトバの帝国だ。かくかくしかじか書くという名の真実をばしかと見届けよう。すなわちこれぞエクリトゥルーなり。