ヴィフレド・ラムという画家
その名もヴィフレド・オスカー・ドゥ・ラ・コンセプシィオン・ラム・イ・カスチーヤ。 キューバが共和国宣言をした年に生まれたのが このヴィフレド・ラムという画家の始まりである。 母親がコンゴ人とスペイン人との混血、父親が中国人という混血児であった。 (ちなみに、Wilfredo(ヴィルフレド)という名前だったらしく、 行政上のミスで「l」の一文字欠けた、「ヴィフレド」という名前になったらしい)
その名もヴィフレド・オスカー・ドゥ・ラ・コンセプシィオン・ラム・イ・カスチーヤ。 キューバが共和国宣言をした年に生まれたのが このヴィフレド・ラムという画家の始まりである。 母親がコンゴ人とスペイン人との混血、父親が中国人という混血児であった。 (ちなみに、Wilfredo(ヴィルフレド)という名前だったらしく、 行政上のミスで「l」の一文字欠けた、「ヴィフレド」という名前になったらしい)
話は変わって、フランスのラヴァル出身の画家アンリ・ルソーの話をしよう。 晩年の「夢」と題された傑作のことを思い出した。 ジャングルの中に、ポーランド王妃の名前であるヤドヴィカ (ルソーがかつて恋していた女性らしい)という女性が 裸体で横たわっている不思議で幻想的な絵である。 ルソーの十八番といえば、なんといってもこのジャングルである。 密林こそがルソーが求めた楽園だったのだろう。 市中の景観や、人物画と並んで、このジャングルの絵は 遠近感や立体感といった視覚上現実を忘れることで、 自在に夢と戯れることのできるルソーの庭たる空間なのだ。 とりわけ、植物、葉っぱなどの造形には並々ならぬこだわりをみせ そのエキゾチックなムードは、幻想的であり のちのシュルレアリスムの予兆とよんでもさしつかえないほどに、 独創的な作風をすでに懐胎していたのである。
もっとも、ジャコメッティといえば、 あの病的なまでの細身の像を作り続けた彫刻家としてのイメージから、 ややもすれば、気難しく、命をすり減らすかのように、 探究心あふれる孤高の芸術家として生きたような錯覚を、どこかで持っていた。 確かに、完成することよりも、完成しようとする意志に貫かれて、 創造と破壊を繰り返した“完全主義”という一面こそ持ち合わせていたが、 生涯において、他人を寄せ付けず、 孤独なうちに野心ついえたようなタイプの芸術家とは、 根本的に違っていたのである。
フェルナン・レジェという画家の名前をだしてきて いまどき、どのくらいの共感がえられるのかはわからないが レジェの絵から受ける躍動感はさすがだと思うし、 現代でも通用するポップな精神性が脈々と宿っている。 けして古めかしくもないし、わるくないものだ。
野獣派ときくと、なんだか激しいタッチのものを想像してしまいがちだが マティスの絵は、むしろ反対に 華やかな色彩と遊び心に彩られているから、 ある意味野獣という響きは似つかわしくない。 むしろ、アクロバティックであり、サーカス的、 カーニバルのような空気に覆われているように思えてくるという意味で まさに“生命の園”であり、 自分ならそれをまとめて“カニバティック” とでも呼びたいところだが、いかがだろうか?
20世紀初頭、フランス近代絵画史を代表する一人である画家ラウル・デュフィ。 その名前を聞いて、あなたはどんな作品を頭に思い浮かべるだろうか? モネやルノワール、セザンヌといった印象派から影響を受け、 フォーヴィズムの担い手として一時代を築き活躍した画家は、 マティスにその薫陶をえたというべく 鮮やかな色彩の「ニースの窓辺」をはじめとして そのタッチ、現代のイラストレーションにも 多大な影響を及ぼしているであろうこの画風に、 今見ても、新鮮で実に生き生きとした精神の躍動感を感じるだろう。
Who is FOU FOU? いまでこそ、世界をまたにかけ活躍する日本人アーティストなど珍しくもなんともなく、誇らしい限りだが二十世紀初頭となると、せいぜい早川雪舟かこれから書く藤田嗣治ぐらいしか思い浮かばない。 そん...
「お金よりも励ましが大事なんです」 映画『モンパルナスの灯』のラストで、 モディことモディリアーニの絵を買おうとする リノ・ヴァンチュラ扮する画商に向けて アヌク・エーメ扮する妻ジャンヌがそういって、 嬉しさを顔いっぱいに滲ませるシーン。 何とも切ないシーンである。
ベルギーの画家といえば、 真っ先にマグリットの絵を浮かべてしまうところだが、 ここにもう一人、ポール・デルヴォーの名を忘れるわけにはいかない。 マグリットがまさにシュルレアリスムの画家と言って差し支えのない、 形而上学的で、無意識下の心理をくすぐる絵だったのに対し、 デルヴォーの場合は、シュルレアリスムの画家と呼ぶに、 どこか躊躇してしまう何かがある。 上品で優美な写実的風景が横たわっており、 シュルレアリスティックな夢の領域だけではどうも収まりが悪いのだ。
厄介なのは、そのイメージに対し、 全く予期せぬタイトルがつけられて いよいよ我々の理解は言葉では説明がつかず 無防備にさらされてしまい、身動きが取れなくなってゆくことである。 まさにマグリットが繰り返し描いた石化風景に 身を以て埋没してしまうのである。 マグリットはそうしたものの総体をポエジーと呼ぶ。 なんと便利な用語だろうか。 されど、これほど端的なものものなく、 まさにイメージの詩学が展開されるのだ。