ジャック・リヴェット『北の橋』をめぐって
その意味ではリヴェットによる『北の橋』は、かつて74年に撮られた傑作 『セリーヌとジュリーは舟でゆく』からの続編、 とはいわないまでも、ファンタジー性やその虚構空間においては 内容は違えど、どこか地続きの映画構造のように映るだろう。 いずれにせよ、物語に容易に収斂されえない展開ながら 本能的な自由を求める奔放さでもって 観るモノを魅了してゆくリヴェットらしい即興性に満ちた 遊び心満載の、謎解き冒険譚であることは間違いない。
その意味ではリヴェットによる『北の橋』は、かつて74年に撮られた傑作 『セリーヌとジュリーは舟でゆく』からの続編、 とはいわないまでも、ファンタジー性やその虚構空間においては 内容は違えど、どこか地続きの映画構造のように映るだろう。 いずれにせよ、物語に容易に収斂されえない展開ながら 本能的な自由を求める奔放さでもって 観るモノを魅了してゆくリヴェットらしい即興性に満ちた 遊び心満載の、謎解き冒険譚であることは間違いない。
クライマックスは、というと「情事」の矛先、 つまりは「危険なプロット」の方向性が大いにズラされてゆく。 今度は教師ジェルマンの妻ジャンヌへと向かう。 このあたりの「プロット」展開は見事だな。 こうなると今度はジェルマンが嫉妬にかられるわけだ。 あげくには学校はテスト漏洩問題が明るみに出て職はクビになるし 妻には愛想を尽かされる羽目になってしまうというってな話だが、 原題『Dans la maison』から邦題の『危険なプロット』、 内容から見ればこの邦題の方が的確に要点を突いている。
夜更けに、眠れなくなるやもしれぬ熱いコーヒーを口にしながら ふとマイルス・デイヴィスのアルバムを聴いていると 夜がいつになく身近なものに感じられる。 いつもなら、この時間『Kind of Blue』あたりをお供に 静かに悦に入っているところだが、 今日はいつもと違う刺激とばかり、別のアルバムに手を伸ばしてみる。 ジャンヌ・モローがジャケットを飾るのは ルイ・マルによる『死刑台のエレベーター』のサントラである。
このクルーゾー版に感銘を受けてリメイクされたのが フリードキンによる1978年度リメイク版だが、 今回まず、元祖『恐怖の報酬』のほうについて言及したのは 幻の傑作、フリードキンの最高傑作と誉れ高いリメイク版に触れる前に その踏み台と言ってしまうにはあまりにもったいなく 元をきちんと見直して正しい認識をもっておきたかったまでである。 ニトログリセリンの運搬に命をかける男たちの悲哀は いずれにもストーリー上共通の柱ではあるが、 やはり、恐怖へのアプローチが時代を越え、 国境を越えればこうも違うものかと 映画ならではの醍醐味を考え直させられるに至るのである。
こうして出来上がった魅力溢れる人間たちの縮図『天井桟敷の人々』。 そもそも“天井桟敷”というのは 劇場の最後方・最上階にある天井に近い観客席のことをいい そこは当然料金も安く、最下層の民衆にとっての指定席で、 この映画のフュナンビュール座では「天国」と呼ばれ、 ワーワーガヤガヤと子供のように賑やかだったことから 「Les Enfant Du Paradis(天国の子供達)」と呼ばれるようになったんだとか。 いかにも演劇の盛んな国フランスならではの 文化的背景が見え隠れするエピソードである。
セドリック・クラピッシュ『猫が行方不明』は じんわり、ほっこりする映画である。 原題の「Chacun cherche son chat」をそのまま訳せば 「だれもが自分の猫を探してる」ってなことになるけど その本当の意味が最後まで行くとわかってくる。
まあ、そのあたり個人差があるだろうが 当時なら、十中八九、ドロンはまずその代名詞だった。 そんなイケメン俳優アラン・ドロンのことを思ってみる。 ふとメルヴィルの『サムライ』をみて ドロンという俳優が単に美貌だけで 世の羨望の眼差しを受けていたわけではないことを改めて理解した。 やはり、ちょっとオーラが違うのだ。
ある意味、時間が止まった世界の住人として見かねない先入観から 逃れえないといえるノスタルジーを引きずっているかもしれない。 それでもそれぞれに受けた印象は、時代を経て刷新されはするものの、 その感動や印象がけして色あせることなどないのだ。 今見ても、何かしらの発見や驚きがあり、感動がある。 そんなスクリーンを通して伝わってくる作り手たちの魅力的な空気を 言葉のみで伝えるには限界があるとはいえ、 できる限り埋めうるものを中心にカタチにしたにすぎない。 これは後生大事にしまってあるガラクタの宝石箱からの発信であり 美化しようというよりは、その魅力をただ伝えたいだけなのだ。
タランティーノが梶芽衣子の大ファンというのはよく知られた話で、 当然のごとくエンディングに「恨み節」が流れる。 何ともニンマリするところだが、肝心の梶芽衣子の『修羅雪姫』の引用は あくまで様式美に過ぎず、『キル・ビル』そのものが背負う「復讐劇」としては 少し唐突な気配がしないでもない。 が、この異国の心の底からの熱狂マニアっぷりが高じて 撮り上げたエンターテイメントにいちゃもんをつける気は毛頭なく むしろ、面白く拝見したという意味では、 正真正銘のタランティーノ神話の、遅ればせながら ようやくその住人になれた気にはなっている。
映画は事件をめぐる人間たちによる群像劇といえるが ショーケンと小柳との夫婦間のいざこざと愛憎をはじめ、 そこに絡むすれてない子供たちとの情感。 (ちなみに、娘役の香織は高橋かおりの子役デビューである!) また、誘拐された家族、秋吉久美子と岡本富士太夫婦と 警察組織の焦燥感の攻防。 冒頭で新聞社の部長丹波哲郎が歌うカラオケ「ダンシングオールナイト」や ショーケンとの昔馴染みという設定の女池波志乃との情事、 あるいはヘリを操作する菅原文太の登場、 若手の記者宅麻伸と恋人役の藤谷美和子の関係性などなど、 それらが果たして必要なシーンだったかどうかはさておくとしても、 救出までのサスペンスには、ノスタルジックな情緒を感じながら もっと肩の力を抜けよ、などとは到底いえないようなリアルな空気感に満ち 追い詰められた人間たちの、切迫感がヒリヒリと感じられる映画だった。