伊藤潤二『誘惑』展のあとに
年甲斐もなく、ホラー漫画にときめくだなんて。。。 いやはや、もはや、年齢など関係はないのだ。 とはいえ、正直に告白すれば、それは楳図かずお以来の衝撃だった。 古い記憶をアップデートできずにいた長年の思いが そこで一気に刷新されたのだ。 世田谷文学館で開催された漫画家伊藤潤二展『誘惑』に足を踏み入れたとき、 ぼくは既視感と微かな違和感に満ちた空間に包まれていたことを告白する。
アート・デザイン・写真年甲斐もなく、ホラー漫画にときめくだなんて。。。 いやはや、もはや、年齢など関係はないのだ。 とはいえ、正直に告白すれば、それは楳図かずお以来の衝撃だった。 古い記憶をアップデートできずにいた長年の思いが そこで一気に刷新されたのだ。 世田谷文学館で開催された漫画家伊藤潤二展『誘惑』に足を踏み入れたとき、 ぼくは既視感と微かな違和感に満ちた空間に包まれていたことを告白する。
アート・デザイン・写真本展アーティゾン美術館での「ブランクーシ 本質を象る」展は、 20世紀彫刻の夜明けを告げたコンスタンティン・ブランクーシへの、 形而上の詩にして、肉体から解き放たれた彫刻世界の核心へと 観る者を静かに誘う一つの契機だったと言える。 なにぶん、自分にとっては、ブランクーシの作品に 直に触れる初めての体験であり、 というのも、日本の美術館で初となるブランクーシ展であり 1907年に制作された、石の直彫り作品から石膏で作られた代表作《接吻》 抽象化の局地を代表する《空間の鳥》まで、 初期から円熟の1920年代の作品が集結する貴重な展示を見ることができた。
アート・デザイン・写真そんなことで、スペインが産んだ抽象絵画の巨匠ミロを 美術の観点から、言葉を重ねてゆく作業に限界を感じながら ある種、ミロ絵画の音楽性に甘えて、あえてぼくは言葉から逃げた。 シュルレアリスムという運動の喧騒を縫って、 ひたすら自由への道を主張し続けたミロ。 彼は絵は、生きる歓びに満ちている。 だが、ときに、キャンバスを焼くほどに熱を帯びた。 戦争への憎しみ、資本主義、物質主義への反抗。 その本質こそがミロなのである。
アート・デザイン・写真アンリ・マティス。 ピカソに並ぶ、20世紀美術界を代表する巨匠。 その名はぼくにとって、歳を重ねて思うのは、 それは心の情緒には欠かせない、 ひとつの教養であり、知性の源泉であり、 今回のマティス展を通し、ある種の高みにある、 敬虔で崇高な祈りにまで到達する体験であった。
アート・デザイン・写真坂本龍一は、音楽を空間化し、視覚化し、彫刻化した。 言い換えれば、音という“見えないもの”を、いかに見えるようにするか? そして時間という“流れるもの”を、いかに感じ取れるようにするか。 その営為は、彼を現代美術の最前線にさえ立たせるに十分だった。 彼は音楽という狭い枠に押し込められることを嫌った。 その活動は、実に多岐に渡り、後期には政治的な発言も目立った。 それが坂本龍一の関心ごとだった。 彼こそは、日本人であり、教養人であり、戦士であった。
アート・デザイン・写真うろんなぼくが違和感と共に暮らす術を学ぶまで 胡乱とは、つまりは胡散臭いこと、あるいは不確かなこと。この「うろん」という言葉を、ぼくがはじめて意識したのがこのエドワード・ゴーリーによる絵本『うろんな客』だったこともあり以...
アート・デザイン・写真猫に手を引かれ 美術館は心の病院 猪熊弦一郎 美術は楽しい、という謳い文句とは裏腹に現代美術という少々おっかない威厳のようなものの前にそれだけで身構えてしまう人もいるなかで、ぼくは、長年その呪縛と戯れながらも楽しみ、親し...
アート・デザイン・写真改めて、残されたビアズリーの写真をみると、 どこか、退廃に浸る悪魔的な匂いがしてくる。 が、若くして自らの死を予感していたビアズリーは、 人生の終盤になってカトリックに改宗し、 死の間際では、ペンではなく十字架を握っていたのだという。 神の啓示からか、実際に後期の絵にはその毒気が抜け落ちてゆく。 とはいえ、禁じられた図像は語り続ける。 「芸術は死ぬが、死が芸術になるときがある」のだと。
アート・デザイン・写真一般的には、シュルレアリスムの先駆者たる幻想画家だが、 晩年になって至った新境地によって パステルを使用した艶やかな色彩の絵画で、ようやく世間からもみとめられ、 ここ日本でも、比較的人気のある画家として、その扱いを受けてきた。 とりわけ、生涯にわたって描き続けた花のモティーフは 陽的なルドンの評価を決定づけるまでに人気がある。
アート・デザイン・写真何の根拠もない魂の導き。 それはどこでもない、だれのものでもない ただ自分の心の中でのみで起こることなのだ。 そんなおり、20世紀初頭に活動したスウェーデンの女性画家 ヒルマ・アフ・クリントの展覧会に足を運んだ。 文字通り、なにかに導かれるように、その絵と出会ったのである。 我々の前に、100年遅れでやってきたというのに、 なぜか現代的なモダニズムの洗礼を受けるかのような不思議な新鮮さ。 およそ、この世の時間感覚では量れない奥行きがある。 館内を目一杯に使う巨大なタブローの展示から、 身近で、どこかで発見したような資料のような絵まで、 その絵のレンジは実に様々で、魅力的に思えた。