イメージを釣り上げる新しい人類の起床
EX-APE GALLARY
念写という超常現象をご存知だろうか? 鈴木光司の小説で、のちに映画化もされて有名になった、『リング』に登場する超能力者である貞子の母親のモデル、御船千鶴子や長尾郁子といった「千里眼事件」で知られる明治期の超能力者たちが持っていたとされる特殊能力のことである。頭の中にある想念が、テレパシーによって、非物理的に印画紙などにイメージとして焼き付けられ、なんらかの像が立ち現れるというのである。一昔前は、メディアが活字を躍らせていたのをよく目にしたものだ。やれ超能力だ、スーパーパワーだともてはやしされ、世間の話題をさらったのを思い出す。それが本当かどうかはさして重要ではない。さりとて、ここで、それを議論するつもりもなく、仮に自分に備わっていたとしても、その類の術を披露しようとも思わない。そもそも、そんな眉唾芸に依存してまで、承認欲求を満たしたいわけでもないし、闇雲に意気込んで、我が魂を無駄に疲労させたくもない。(ちなみに、自分の立場からはその手の超常現象は、別段あっても不思議じゃないし、あればあったで面白いと考える程度の人間である。)
ここに掲げる「LAND-EX-APE(ランデクセイプ)」とは、風景という意味の言葉(LANDSCAPE)からもじった、文字通りの造語である。直訳すれば“元猿人大陸”は、いわば原風景から抽出された原人大陸だ。その響きからは、まるでチャールズ・ミンガスの『直立猿人』並みにそそられる。むろん、あくまで直感的なネーミングとして使っている。強いていえば、風景のように立ち現れる創造景色のことであり、イメージの究極の遊びだが、要するに、目の前に風景らしきイメージが現れたと捉えれば全ては納得してもらえるかもしれない。そこに念写という用語をわざわざ持ち出したのだが、かように念を物質化できるのは、われら人類だけの特権であることを利用し、アートの領域で展開したまでのことである。そもそも普通の人間に、超常現象などを持ち出してもまともに相手にされるはずもなく、そこはひどく覚めている。ならば、というので、コンピューターを駆使して、擬似的なことをやってみようと始まったシリーズを「LAND-EX-APE」と名付けることにより、より人類的愛着を共有したまでである。
この作業にルールやメソッドは特にない。PHOTOSHOPというソフトは、従来、写真のレタッチソフトとして開発され、写真の加工に活躍する定番のソフトである。これを用いて、写真ではなく、絵を描くシリーズには他にもあるが、ここでは、もっと根源的に、抽象イメージだけに限って並べている。ああでもない、こうでもないと、とにかく闇雲に機能をいじることでなんとかイメージを捻出した結果、気に入った景色をここに選別した。
絵画でいうなら、オスカー・ドミンゲスの発明したデカルコマニー、その手法を試みた瀧口修造によるバーントドローイング、マルセル・デュシャンのロトレリーフ(モーターによる回転線描)、あるいはマックス・エルンストで知られるフロッタージュなど、偶然によって生み出される抽象画法をデジタルに駆使して出来上がったイメージとでも言っておこう。全く何も考えずに、感性の赴くままに現れたイメージに、ひたすら飽きるまで処理を重ねてゆく。手は動かすが、あくまでソフト操作のための機能の一部と化してゆく。思考よりも手の方が早く作業を推し進めるものだから、マウスを離さなければ、それこそ半永久的に終わりが見えてこない。半ば強制終了というジャッジを脳の方で下してやらねば、この創作の底なし沼から抜けられないのだ。
そうはいっても膨大な数のピクセル抽象画を繰り返し、捻出していると、次にどんなイメージが立ち現れるかというのは、ある程度想定できるようにはなる。全てがオートマチックな産物ではないが、あまりにもこなれてしまうと、職人的なルーティンとしてつまらないものが出来上がるものだ。そういうものはどこかあざとく見えてしまうし、創作としても価値を感じない。避けるべきはこの“あざとさ”であり、見る者を支配しようする、絵画以前のサブリミナルな価値基準なのだ。いったんそう感じ始めたら、このプロセスは潮時の合図である。
あたかもデレク・ベイリーの即興演奏のように、一聴するとデタラメのようでいて、どこかで理性を働かせながら、その根底に知性のようなものを静かに脈を打たせる術を身につけたといえば聞こえはいいが、やはり言葉で説明するのは限界がある。まずは数をこなし、その工程を楽しむ。世の抽象画家たちがその深みにはまって行為をやめようとしないのと同じように、一度ハマるとそのプロセスは掛け値なしに面白いのだ。なぜなら作業は無限であり、自由そのものだからだ。意識だけが宇宙に飛び出したような気分になるのである。しかし、先に書いたように、無限であるはずの可能性を邪魔をするのがこの意図的な思い、プロセスである。だからこそ、かつてシュルレアリストたちは、あれほどまでに自動手記にこだわったりしながらも、いかに純粋にイメージを釣り上げるかに躍起になったのだと思う。頭のなかでこういうイメージを作ってみよう、などと考えて作るのではなく、まずは、「初期衝動」に突き動かされ、大海に投げた釣り針にどんなイメージかかるのか? あたかも念写のように、思いを念じるがごとく、ひたすら時間を費やして出来上がったその原型たる魂の風景画「LAND-EX-APE」を、ここに展示するとしよう。























