カオスギャラリー
顔は心の扉で顔が閉ざされれば一緒に心も閉ざされてしまい、もはや訪れる客もない。心は顔の後ろで朽ちるに任せ、やがて廃墟になるのを待つばかり。
『他人の顔』安部公房より
単刀直入でいう、顔というものが好きなのである。造形として親しみを持っているのである。特定の顔がいいと思うこともあるのだが、ここではひとくくりに顔そのものを総じてその対象としている。
あたかもひとつのオブジェといった按配で認識しているのである。
だから、夜寝静まってぬっと現れる顔は流石に怖い。あくまでも客観的に顔を想起した場合のみ、顔に親しみを持ちうるわけである。
顔は文字通り、その人の顔である。造作に秀でいるいないはその際どうでもよい。美的感性なども問題にはしない。顔でありさえすればそれでいいのだ。
なんなら〇△□の組み合わせの記号のようなものであってもかまわない。
作品を作る基準、動機は、ずばり顔からである。顔、中心なるもの、である。
なぜかほっとするのが、作品で出来上がる顔なのだ。実にわかりやすいのである。人間ならば、基本喜怒哀楽と言うものがある。それが表情にでていれば、それだけで他者は意味を嗅ぎ取ることができるだろう。
つまりは言葉よりも雄弁なのが顔というものの一つの魅力なのだと思う。
また、その逆も真なり。無表情の奥にも雄弁な物語がある。
なんなら生きてきた人生の重みを知ることもあるだろうし、その反対で能面のように、なにも読み取れないものもある。顔はあくまでも記号にすぎない。他人の顔とは、そう暗号のようなものだ。なにを描いていいか、作っていいかわからないような場合、単純に顔というモティーフからはじめてみるというのが一つのスタンスだ。そうしてできあがった作品は数知れない。あーでもないこーでもないと頭を悩ますより、顔を念頭に置いておけばその分迷いは消える。仮に、それが既存のだれかのものであってもいいし、まったくのねつ造であってもかまわない。似顔絵のように、似ている似ていないの基準もないから、自由に描けば良い。そんな風に、ランダムに、おびただし顔が複数あつまったところでは、絶えず混沌とした雰囲気を醸す。いうなればカオス状態である。しかし、なにもおそれることもない。
顔はひとつの共感を呼ぶ。人類の共通の言語として、それは浸透しているからだ。古代の象形文字や、壁画などをひもとくまでもない。ここにある顔たちは、必ずしもいままで出会った具体的な人物から拝借したものではない。
だから全く気兼ねなく晒している。ひょっとすると無意識が現れている、と言う意見もあるのかもしれないが、そればかりはなんとも言い難い。
無意識に誰かに似ているかもしれないし、どこかで出会った記憶に基づいている可能性もないわけではないだろう。
けれども、描くときは描きたいという衝動によって描くだけだから、思考は時間のずれによって生じる、一種の影のようなものでしかない。
場合によれば、自画像のような場合もあるから面白いのだが。
無意識というのは、そうやって自分ではなかなかコントロールできない領域にあるものなのだ。
とはいえ、踏み込めば顔は怖い。なぜならば、嘘や偽り、自分が抱え込んでいる負の意識を見透かしているかのように、こちらに言葉を投げかけてくるからである。いうなれば自己対峙としての顔。顔を洗って出直す、とはよくいわれるところだが、自分で描いたモティーフとしての顔をみて、自己を改めるというような、そんな思いがあるような気がしないでもない。
身だしなみとしての顔があるように、身だしなみならぬ心のたしなみとしての顔の絵があってもいい。
そういうものをこれらカオスメティックを通し、洗浄しているのだと思えば、
少しは清々しい気持ちにもなれかもしれない。
顔が心を代弁していると言う仮説だ。
このカオコズミックたちの立体版が彫刻作品である。