「いまぼくがひたすら望んでいることは―存在すること(to be)なのだ。どうか忘れないでほしいが、この不定詞は中国語では<他動詞>なんだよ」
ヘンリー・ミラー『南回帰線』
かりそめのアクター
サブカル伝道師こと、みうらじゅん発祥の「ゆるキャラブーム」がツボに入った。氏の『ゆるキャラ大図鑑』を手にしたときの、ただ眺めいるだけでじんわりこみ上げてくるような幸福なひととき。キャラクターなんて所詮ゆるくていいのだ、ゆるいからこそのキャラクターなのだ、そんな啓蒙が目から鱗だった。日本各地に展開される、ふるさとPRの一環として活躍するゆるキャラたちにスポットが当たったこともあって、当のゆるキャラたちはむろん、地元民や関係者間にも少なからず勇気や癒しを還元したはずだ。「ゆるさの効能」をもって、大衆の未開の眼を開いたという意味でも、十分その存在意義は今なおあるだろう。そうした社会の気運を、どこまでもゆるい共感で盛り上げてゆこうとする思いを支持する者である。
かくいう自分の創作活動の範疇においても、匹敵するキャラクターたちが立派に存在している。必ずしも「ゆるい」かどうかはさておくも、こちらも玉石混交キャラの巣窟だけに、幾分なりとも“ゆるい分野”寄りであることは否めない。ただし、「本家」に対抗しようとする野心もなければ、ブームに便乗しようという魂胆もない。そもそも、成り立ちが違うのだし、こちらは名目上、社会に開かれた特別な使命よりも、いかにして個を成立させるか、という命題の方が先であり、むしろ、さらに周辺部に追いやられるであろうアウトサイダーそのものと言っていい気配に満ちている。運動を高めうるような存在意識とは別次元で、キャラクターたち個々の意思、ならびに個性豊かな存在ゆえの、歪な病をも併せ持っている。とどのつまり、こちらは“かりそめのアクター”たちによるかそけき運命共同体一座なのだ。
こうして祝祭的に熱狂することを「キャラクタリズモ」と呼んでいる。まるでラテン気質にでも肩入れするかのように見えるが、事はそう単純でもない。そうした一連のキャラクター総体を預かるエージェンシーとしての立場でいえば、個性を一方的に発信したところで、そこから共感を得るにはいくつものハードルを乗り越えてゆかねばならないことを知っている。新たな可能性や運命が切り開かれるかもしれないことを鑑みれば、その代償と引き替えの高揚感ぐらいあってしかるべきものなのだ。キャラクターとは本来、(強弱はさておき)なんらかの使命を背負っているものだ。良くデザインされていようがいまいが、使命や役割のないキャラクターというものは、キャラクターとしての体を成さないだろう。その上で、演じるという“武装”そのものが、俄然色めきたってくるわけだ。わざわざ高尚に謳いあげるまでもなく、ある種ドキュメンタリー映画の主人公のように、武装=フィクションを盛り上げていくことそのものが純粋に享楽たりうることを、どこかで心得ているものたちなのである。
キャラアクター一覧
第1期生
第2期生
継続は力なり
キャラ総大将「イジドール伯爵」をはじめとする第1期生たちは、数ある個性のなかでも特別感慨深い連中だ。なぜなら、こちらがまだパソコンのイロハも知らず、デザインや絵心に未開であった頃から、衝動を見透かすように絶えず好奇心を煽りながら、唐突に誕生した“同志たち”であるからだ。単純な図形の積み上げに始まり、どこで何がどうなったかもわからぬまま、どさくさ紛れに現れたイメージの集積。稚拙さや粗雑さ、あるいはナンセンスに身を任せるといった、セオリー不問の造形センスによって貫かれたその精神性は、未熟なぼくの背をどれほど強く後押してくれたろうか?
今日こうして堂々と君臨し、我が創作活動の一翼を担う分子として、以下連綿と続いているキャラクタリズモの祝祭的一体感を盛り立ててくれていることが、奇跡でしかないのだ。改めて感動的な思いが込み上げてくるというものだ。造形は年月とともに次第にこなれてゆき、感覚的にも研ぎすまされ、順当なまでにその存在感を増している。稚拙であれ出来損ないであれ、さりとて、一度懐胎した我が子の如く、後生愛おしきキャラであり続けることだろう。我が魂の分身たちとして、こちらはただそれを見守ってきたにすぎない。
キャラアクターたちは、一期(衝動)から二期(変化・成長)を経て、最近ではAI(進化・洗練)というテクノロジーさえも巻き込んで、日々続々と生まれ落ちている。研究生から門下生、黒子にいたるまで、いつか陽の目を浴びる日を夢見て、我も我もとしのぎを削りあっているザマだ。あらゆる「キャラ(個性)」に門戸を開放しているとはいえ、堂々世に晒す前に、当然、選考の網目を掻い潜らねばならない部分もある。純粋なアート分野とは違い、それがデザイン(デザイナー)としての宿命でもあるからだ。ここに紹介する100体以外、やみくもに紹介しきれない、あまりに未開すぎるもの、意味すらなさない浮遊層のキャラたちの運命も、我が裁量、編集のさじ加減ひとつにかかっている。仮に個性という名でいくらくくってみせても、キャラ自体をミスリードする危険性も十分にある。存在の曖昧なキャラには、それ相応の生き様を見出してやらねばならないと思うのだ。だからこそ、逆説的に、様々な存在形態が許容されるのかもしれない。そこにカオスさながらのキャラクタリズモ的熱狂を期待するところだ。
あるものは絵画的主張やモティーフへと移行し、あるものはアイコン然と勝ち誇ってみせ、またぞろ、グッズ化や商品化への道までを模索、提案するようになる。そうなると秩序も常識もへったくれも通用しない。アナーキーな波動をもってしても、一座はひとまずは形となったことへの安堵感をかみしめているようにもみえる。その表情に、存在する危うさから一転、真の自由さを獲得し、はたまた解放感へ、そして謳歌へと置き換わってゆくのを見るだろう。しかるに、こちらも個性を無条件で受け入れることしかできない。他でもない、これぞ我なり、という究極の自信こそがその存在を後押しする唯一の生きる術なのだ
異種情感生命体の話
ここでのキャラアクターたちを“異種情感生命体”とも呼んでいる。宇宙人や寓話、伝承等の妖怪やモンスターたちの類いに、どこか雰囲気が似ているせいかもしれない。いうまでもなく、彼らを日常現実化するのは、想像力、空想力の賜であり、すべては脳内イメージの表出にすぎない。幸い、ぼくにはそれを純粋培養できる能力が与えられており、時に錬金術的に、はたまたイタコや産婆がやるように、目に見えぬ不思議な力に身を委ねることで、直感による導きといえる事態(啓示)を受けることになるのだ。
宇宙意識との純粋な交信作業、と言い換えてもいいほどだ。わが肉体や存在を通し、直感とメディア(パソコンやアプリ、ときにはペンなど)とが相通じる交感(コレスポンダンス)がそこにあり、瞬時に顕然化するイメージを不可視の領域から釣り上げればよいのだ。
ぼくはかねてから宇宙人や妖怪の存在を信じてきた人間だが、必ずしも顔があり、手や足がある、といったステロタイプのイメージだけを想起しているわけではない。というのも、キャラアクターたちの共通言語は、通常“想念”であり、いうなればテレパシーを通じての交流であるからだ。各生命体は、必ずしも生き物としての形をとる必要がないのである。ときには星雲や雲のような現象であり、水や火のような自然界の物質に似ていることもあるだろう。単にマークや記号、無機質なオブジェのようなものであっても一向に構わないのだ。想念で交流できる意識の集合体にとって、みたくれのイメージなど、あくまでもパッケージ(器)にすぎず、総じて、我がキャラアクターたちの思想や哲学の形態を含むメッセージのやりとりを、できる限りわかりやすく伝えるために、こちらが言葉を選ぶだけのことである。結局のところ、それを解釈するのは他者であって、その人自身の開かれた心の目次第だと思っている。
キャラアクターAI世代について
キャラアクター界にも、多分に漏れずAI世代の個性が台頭しはじめている。ここでは、初期衝動や試作期、その後の成長段階を踏む世代として、「AI世代」と呼んでいるにすぎない。何が違うのかといえば、適当な言語と生成プロセスでもって、AIという人工知能から捻出されたイメージを、さらに換骨奪胎し再構築する工程に持ち込み、旧キャラとも自由にマッチング作業を施しながら、リミックス(リメイク)およびメンテナンスを経たニューキャラクターというだけである。こうした旧メンツとの共演共存関係は、物事をより多層的、多次元的に映し出すことができるが、あくまで手段でしかない。AIの力を特別過信することもなければ、忌み嫌うこともない。物事の多面性を許容しつつも、最終的に浮かび上がったイメージを尊重し個性化する、あとは受け取る側の感性に委ねるだけのことである。天然か邪念か、それとも単なる戯れか? そんなことはもはやだれの関心事でもない。そうして各自が自由に色を読み取れば良いのである。
アクター名鑑
別名ラメコ先生。たらこ唇の愛嬌ある体育の先生だ。熱血指導で定評がある。ややお節介気味にでも矢面にしゃしゃりたつことがしばしばある。ただ行きすぎて空回り、ということもあるし、そそっかしいのが玉に瑕。本人にも多少の自覚があるようだ。よく言えば江戸っ子気質だが、悪く言えばお調子者。今時珍しい古風なタイプともいえるキャラだが、その情熱に救われるものは少なくない。
温室育ちのボクちゃんは、いい意味でのほほんとして周囲に安心感を与える存在である。それでいて、目立つのが大の苦手。控え目な性質でみんなからひっそり慕われている。ただ、少々時代感覚に疎く、世間知らずのところもあり、その分、一部の急進派たちをイライラさせている。世の中が世知辛くなればなるほど存在感を増す愛しのキャラである。
茶道の師範でもあるT2(Tea通)師匠は、礼儀正しく、伝統を重んじる。よって、他のキャラにはない落ち着きと風情がある、元から格式の高い家柄に育ったため、教養と知性を兼ね備えている。なにより品がある。一日の初めと終わりには瞑想に老けることで精神の統一を図っているほどで、その鍛錬には抜かりはない。そんな師匠の座右の銘は「畳の上で死にたい」とのこと。日本文化を深く愛し、伝統文化を絶やさないという思いがT2の精神性に根付いているのだろう。
マスコットキャラでもあるヌイーグは、子供達の人気者だ。おまけに力持ちで働き者。嫌なことも率先してこなす理想のキャラだ。スポーツも万能で、とりわけラグビーを愛するラガーマンでもある。リーダーとしての素質も兼ね備えており、人望も厚い。ただし、酒は一滴も飲めない下戸であり、本人曰く、「ぬか漬けの匂いを嗅いだだけでも気分が悪くなる」んだとか。もちろん、健康には人一倍気をつかっている健康オタクだ。
カラスの化身として知られているコルボくんは、変わった性格だとよく言われる。いわゆる変人というやつだ。決して団体行動を取らない。一人の時間を大事にしている。一匹オオカミと言えばいいのだろうか。神秘的なことへの興味、研究は尽きず、占星術にも明るい。頭脳は明晰ではるが、その意匠にはやや悲観的傾向が強く、なかなか大衆との折り合いがつきづらい性質である。よく言えば慎重派、とかく物事には懐疑派で、その分、社交性も薄い。常に大地震や天災の心配ばかりをしている。
テラはある種の菌類たちと親密に共生している。他者との共存無くしては生きられないことを自覚しているのだ。そして何より二人で一つのキャラであるがゆえに、片方が死ぬと片方が死んでしまうといったシャム的宿命を抱えている。とは言え、テラはいつも明朗で笑顔を絶やさない。他人に対する思いやりは誰にも真似できないほど深い。テラの祈りは人類の平和、そして恒久的な愛ある世界なのだ。その祈りによってもたらされる施しを糧に生きている、言うなれば聖者のような生き方をしている。
飾らぬ魅力、素の魅力で人を惹きつけるアネゴッティは
言葉遣いが少々粗っぽく、思ったことを素直に口にするから誤解や敵も多いキャラである。おまけに酒癖がわるく、いつも酔っ払っている。
それでも気っ風良く、仲間の面倒見がいいアネゴッティを慕う後輩キャラは少なくない。付き合えば付き合うほどにその良さがわかってくる。
あらゆる日本文化に精通し、日々その研究に余念のないクゲッコは、消えゆく伝統や習慣、文化、芸能への郷愁を抱えつつも独自の視点で、その真髄を伝える貴重な文化の伝道師である。気象に関する情報は誰よりも正確であり、近未来的な予想においては他の追随を許さない。
大地に魂を吹き込み未来を予知するインティミライは、大地を見守る大地神ならぬキャラ神である。インティミライあるところ必ず栄える、という神話があるほどあり、まさに福の神として崇められている。キャラ界ではインティミライ詣でも活発で、要するに、運をわけてもらおう、という輩で常に賑わいを見せている。実質、このインティミライに知恵を授けているのは、守護天使トゥモローネバーノウズで、常に離れず、一体化しており、背後から絶えず物事の真理を授けている。
宇宙から来たのっこは、好奇心が強く、みたものすべてが新鮮に感じることのできるピュアな魂をもっている。あまりに純粋すぎて、周りとの温度差が生じることもある。決して歳をとらない。多くのスターチルドレンたちと魂の交流をはかっているが、いっぽうで、いつも地球人の友達を探している人懐っこいキャラ。
百獣の王ならぬ、キャラ王としてのプライドが高く、
よく言えばリーダーシップのある指導者タイプ
悪く言えば傲岸不遜、マウント志向のキャラクターであるリョンドー。
面倒見はいいほうだが、どちらかとえば周りにイエスマンしかいないのが玉に瑕。引き出しが少なく自分のことを客観視するのが苦手である。おまけに一度切れるとてがつけられらない。
とはいえ、コミュ力の高い憎めないキャラであることは確かである。
ダダは、風の中に棲み、風を媒体として、あらゆる魂を漂流することで会話交流を育む、風の時代の象徴ともいうべき自由の戦士たちである。なので、ダダは猛者たちの栄養分として、捕獲され、取り込まれてしまうのだが、またいつの間にか、風が起こって生命が循環する。
キャラアクターの貴公子、ツータン。
視界良好、有言実行。常に凛としていて、そのまなざしに濁りはない。
そんなツータンの純粋培養で培った気高い魂は
時に水のように、どこまでも清らかに流れてゆく。
みんなからも一目置かれているのは、常に仲間のことを第一に考える思いやり、そして万物への慈しみの心を忘れないところだ。
あまり金銭に拘らないタイプが多いアクターたちの中で、ジェニーはお金には並々ならぬこだわりと蘊蓄があり、いつもお金のことばかりを考えている。とはいえ、小銭が入ったガマ口から、あたかもアラジンの如く、ふわりたち現れるの魔王ジェニーは、いわゆる守銭奴キャラでは無い。少額でも、人を喜ばせるために惜しみなくお金を使いたい、というのががモットーの愛すべきキャラである。
黒猫あがりのセニョールオーレは、なにごとも頼られると意気に感じるタイプだ。ときにはできないことまで引き受けてしまう、「やってみることで全てがはじまる」そんな意識高めのキャラであるが、持ち前のコミュ力で、だれとでも簡単に打ち解ける性格である。ただし、言葉に重みがなく、やや軽い印象を与えてしまうところがあり、誤解されやすいところが難点である。それでもいつもどこか飄々として、くったくがないさっぱりとした性格の持ち主である。
はじけるサイダーのように、いつも弾け飛ぶように明朗活発なシュワッピー。猪突猛進型で後戻りできない性格で、一度やりだすとやめられない止まらない。その分、集中力が切れると、立ち直れないぐらい落ち込んでしまう極端な性質を持ち合わせている。そんな性格を知る周りのものの配慮がないとなかなか環境に適応しづらいところがあるが、当人はそれさえも克服するために邁進している。
妖怪の総大将がヌラリヒョンだとしたら、このキャラアクターの総大将はこのイジドールということになる。イジドールは、あらゆるキャラの性質や性格を熟知しており、仲間や同僚に的確なアドバイスをおくることができるリーダーシップを兼ね備えており、極めて有能で知的なキャラであるといえる。ただ、あまりに神経が細やかすぎるが故に、自らはストレスを大いに抱え込んでしまうのが最大のウイークポイントである。ある時から、彼は自らの内部に、「イライラストレスメーター」なるものを内蔵しており、あたかも血糖値や血圧のごとく、日々その数値に敏感になっている。
座右の銘は「解剖台のミシンとコウモリ傘の偶然の出会いのように美しい」。言わずもがな、フランスの詩人ロートレアモンの『マルドロールの歌』からの引用だが、当人の解釈をかいつまんでいうと、「仮にあざといまでの偶然を装っても美しさが保たれる出会いこそがもっとも美しい」というような主張になるんだとか。要するに、各人、己の様式美を備えよ、つまり個性を尊び、磨きたまえ、ということが骨子のようである。