ドミニク・サンダスタイル『やさしい女』の場合
それにしてもドミニクの目ヂカラが半端なく凄い。 まるで、相手を射抜いて石にでもしかねないかのように強く鋭い。 バスタブでおとした石鹸を夫から手渡されるシーンをみよ。 それがどこかで悲劇に直結していると思うと、胸が締め付けられる。 だが、夫との視線で癒やされることは一度もない。 心の距離もまた、縮まることがない。 表情が緊張から解かれることがないのだ。 まるで手を離れた凧のように、離れてゆくばかりである。
それにしてもドミニクの目ヂカラが半端なく凄い。 まるで、相手を射抜いて石にでもしかねないかのように強く鋭い。 バスタブでおとした石鹸を夫から手渡されるシーンをみよ。 それがどこかで悲劇に直結していると思うと、胸が締め付けられる。 だが、夫との視線で癒やされることは一度もない。 心の距離もまた、縮まることがない。 表情が緊張から解かれることがないのだ。 まるで手を離れた凧のように、離れてゆくばかりである。
そんなヴィスコンティ版 「白夜」においてのマストロヤンニは 別にちょいワルでも色男でもない。 夢想家というか、恋というものに ただ幻想をいだく純情な男を熱演している。 そこには、いささかも外連味もなく、 人としての魅力を最大限にスクリーンに滲ませるのである。 何よりも初々しいのだ。
今日で一月が終わる。 たしか、数日前、この東京にも雪がちらついたが、 結局は大したことにはならなかった。 が数年まえの大雪に見舞われたあの日のことをふと思い出す。 やはりこの寒い時期、一月だった。 手元のメモが残っている。 2018年1月21日、あの思想家西部邁氏が 底冷えしたであろう多摩川に身を投げたのだ。 早いもので三年の月日が流れてしまった。
一方、それは柳町光男によって映画化されているが こちらのほうは原作のもつ青年のやるせなさ、 虚無感がうまく描かれているように思う。 主人公の本間雄二もいいけれど、 蟹江敬三が実にいい味をだしていた。 「かさぶたのマリア」が泣けてくる。 ダイレクトシネマのような手持ちカメラが、 中上文学のエッセンスをつかんでいると思う。 きれいに収まりきった澄まし顔の映像よりもすがすがしかった。
『荒野の狼』は現代文明に対する皮肉であり、 その洞察力はハリー・ハラーを通じてこの物語を支配し、 他の作品以上に、色濃く反映されているように思われる。 だが、フレッド・ヘインズのよるこの映画化は、 単に文学からの映画化というのでもなく、 また、精神的世界を映像化すると言ったものではなく 実験的でありながらも、どこかユーモアや諧謔精神のようなものをうまく取り込んで、 ヘッセの世界観をうまく抽出した映像化に成功している。
フランスにアラン・ジュフロワという美術評論家がいた。 6年前の2015年にすでにこの世をさっている。 評論家、というよりは詩人といった方が正しいだろう。 ぼくにとっては、この出会いこそは一つの啓示のようなものだった。 まるで雷にうたれると同時に また、雨に濡れる官能を知ったときのような 不思議な歓びと驚きといった、 いくぶん大げさな感慨をもつ書物というものがあって、 まさにジュフロワの『視覚の革命』にはものすごく感銘を受けたのだった。
世に言う修羅場というのはそこから来ていて、 このホームドラマでは四人の姉妹がそれぞれの修羅場を通して 姉妹、家族の絆を確かめ合う。 いがみ合っても、距離を保っても 血の濃さ、深さは何ものにも代え難いということを さりげなく、そして豊かに証明してみせる。 今時、こんな歯ごたえのあるドラマがあるだろうか?
1953年に『消しゴム』でデビューして以来 『覗く人』『嫉妬』など次々と文学的問題作を発表してきた作家ではあるが、 幸い、ロブ=グリエという人は生涯9本の映画を撮っており、 アラン・レネの『去年マリエンバートで』の脚本をも手がけているぐらいだから 映画というジャンルにも並並ならぬ意欲を示してきた作家と言える。 実はその作品の一つ『快楽の漸進的横滑り』について 何か書けるかというところから 長々と前振りを書いてきたのである。
コクトー24才の処女小説『ポトマック』。 小説というにはあまりも骨の透き通ったような ゼラチン質の散文である『ポトマック』は、 「鯨と腔腸動物の合の子」という 架空の生き物=怪物をめぐるコクトー流の寓話だ。
地上で生きるためには流行を追わねばならぬ。が、心はもはやそれには従わぬ。 『大股びらき』ジャン・コクトー 目新しい文学にとんと触れていないし、決して熱心な読書家というわけでもない。手元の書架も整理してしまった今となって...