映画史に立ち止まる精霊
あれは「シネ・ヴィヴァン・六本木」がまだあった80年代の終わりだったか。
ビクトル・エリセのデビュー作である『ミツバチのささやき』に
はじめて出会ったときの感動は、40年近く過ぎた今も、全く色あせてはいない。
いまだに、大切で幸福な映画体験の代表として、ことあるごとに「語ってしまう。
一つの事件のように、それほど、大きなショック、感銘を受けた映画なのだ。
スクリーンでであったアナ・トレントという子役少女の天使のような目の輝きは、
作品の輝きそのものといっていいのだが、
この映画を経て、数年前、エリセとしての33年ぶりの作品『瞳をとじて』において
失踪していた主人公の娘として、再びスクリーンに戻ってきたという出来事に、
その時間を、簡単に埋め合わせることができないほど、震えを覚えた。
当然、アナ・トレントもまた、歳を重ね、熟年の女へと成長しているわけだが、
この女優が僕自身にかくも響くのは、彼女が自分と同じ歳という
世でいうところの、同級生的な存在だという事実もあるのかもしれない。
僕自身が歩んできた軌跡とは、所詮、重なるはずもないのだが、
映画を通してみれば、彼女の存在が、こうしてしずかに人生のなかに解け合い、
心の片隅に、蝋燭の火のように灯っていることは間違いないのである。
以来、エリセという映画作家は僕にとって特別な存在になった。
その後、エリセ自身は、たしか有楽町で開催された溝口健二のシンポジウム、
「国際シンポジウム 溝口健二」でのゲストに招かれた際に会場で目撃している。
そのイメージは、映画を通じて想起する作家像をそこなうことはなかった。
寡黙な映画作家、そして今日まで残した長編作品はわずか4本というなかで、
その一本一本が個人的にも重要な作品として記憶しているが、
こうして、エリセの映画を振り返ってみても、本質はそこではない。
彼は単に作品数の少ない監督なのではなく、
立ち止まることを引き受けてきた作家としてあるのだ。
たえず、確かなものと不確かなものの間を漂い、
沈黙と光の境界で思索を続けてきた、
いうなれば、映画史の精霊的存在だといっていいかもしれない。
エリセが生まれたスペインという国は、エリセ誕生の一年前から
スペイン内戦によって時間を断ち切られた歴史をもつ。
その裂け目は、政治の問題であると同時に、
家族の問題であり、人生へと続く記憶の問題へとつながってゆく。
エリセはその断絶を声高に告発することはしないが、
代わりに、午後の室内の光、父の沈黙、子どもの視線といった、
日常の表面にひそむ震えにカメラをむけてきた人だ。
そんな彼の映画とは、出来事を描くのではなく、
出来事の後に残る空気、気配を描く刻印だったのである。
怪物という精霊
なんといってもデビュー作『ミツバチのささやき』から、全ては始まる。
移動映画館が村にやってきて、少年少女たちが純度の高い視線を送る先に
少女アナが観るのは「フランケンシュタイン」という怪物である。
怪物は恐怖の象徴でありながら、同時に精霊のような存在でもある。
戦後の村の沈黙、それを背負う両親、そして逃亡兵の影、語られない歴史。
それらは直接語られず、怪物の像に仮託され描かれる。
エリセはここで、少女の成長過程に映画そのものの霊性を提示したのだ。
スクリーンの光が、現実と幻想の境界を震わせながら、
その瞬間、少女は世界を“初めて見る”ことになるという話だ。
この作品は、映画の誕生体験そのものを描いていると同時に、
世界に初めて触れる少女の手触りともシンクロしている。
アナはそれを「精霊」だと知ったのだ。
不在という目覚め
そこから、十年後の『エル・スール』では、
怪物は外部の存在ではなく、家族の内部へと移ってゆく。
「ミツバチ」の後日談ではないが、成長したひとりの少女を通じ、
父親の回想がつづられる。
父の過去は神秘に包まれ、結局、南(エル・スール)は到達不能のまま終わる。
娘であるエストレージャが映画館で観るのは「日かげの花」。
父が愛した、オーロール・クレマン演じる女優イレーネ・リオスの架空映画である。
実在しないこの映画は、父の私的神話の象徴として挿入されている。
少女の回想の形をとってそうして父親は欠落ではなく、
覚醒の契機として描き出されているのだ。
そして、この映画そのものが未完の作品としてあり、
南へ行けなかったというこの構造は、以後エリセの倫理を決定づけることになる。
つまり、到達不能であることが、思索を持続させる、
もうひとつの原動力であるかのように、
その危うさ、繊細さがエリセ作品につきまとうことを意味しているといえる。
時間という歴史
そして、また図ったように、十年近い月日が流れてしまう。
今度はスペイン美術を代表するスーパーリアリズムの作家アントニオ・ロペス、
そのドキュメンタリー的な作品『マルメロの陽光』へと向かう。
ちなみに、当初はベラスケスによる『ラス・メニーナス』という
大作を巡る映画化を用意していたが
様々な経緯があって、頓挫した代替えだったようだ。
しかし、この選択は、いみじくもエリセのもつ時間の流れに合致してしまう。
ここではロペスの制作過程を画家のリズム、
呼吸にあわせるかのようにその時間を描き出していくが、
光は変わり、季節は過ぎ、果実は熟す。
物語はほとんど消え、まさに時間そのものが主題となる。
だが完成は遅延し、ここでも絵は描き切れないまま終わるが、
エリセは制作の不可能性を肯定するしかない。
未完はけして失敗を意味しないし、芸術の本質であることが浮き彫りになるのだ。
ここで彼は中断を主題化し、時間を歴史の重さとして抱え込むことになる。
まさに、ひとりの画家を通して、
エリセ自身の歩みに同化した瞬間が刻印されているのだ。
記憶と再生
こうして、十年刻みの寡黙さのなかで、
三十年以上の沈黙を経て生まれた『瞳をとじて』は、
まさに中断からの再出発となった作品である。
撮影中に失踪した俳優と、未完の映画『別れのまなざし』。
スクリーンを見つめるひとりの男。
ここでエリセは自らの沈黙を物語化する。
劇中には、チャップリンの「殺人狂時代」やニコラス・レイの「夜の人々」のポスターなどがさりげなく目に止まり、
さらには「ラ・シオタ駅への列車の到着」までもが思いがけない形で現れる。
これは単なる映画愛の誇示ではない。
誕生から老いへと至る映画史そのものを、静かに抱きしめる行為にも通じている。
ミゲルが口ずさむリオ・ブラボーの歌もまた、
失われた共同体への挽歌のように響く。
再生は起きるのか? 記憶は戻ったのか?
エリセは答えを最後まで確定しない。
しかし光は消えない。
奇跡は起こらなくても、像は残る。
ここで彼は映画への鎮魂歌を捧げたのかもしれない。
怪物→不在→時間→記憶
こうして、エリセが残した四作を
「怪物→不在→時間→記憶」という変容で読むと、一つの円環が見えてくる。
怪物は精霊として始まり、不在は目覚めを促し、
時間は歴史の質量を帯びながら、記憶は再生へと向かう。
そしてその先には死の予感さえも滲んでいる。
しかし、それは終焉ではなく、内側へと移る光だ。
目を閉じるとは、終わることではなく、内面で像を抱くことになるだろう。
エリセの探究が、ここに終わったわけではない。
ぼくらは、そんなエリセにこれからも夢を見続けるだろう。
立ち止まるという必然
エリセの寡黙さ、制作の困難さ、厳格さはなにも偶然ではない。
当然、資金難という商業的構造もある。
だが、その本質である、語りすぎれば壊れるものがあると知っていたからだ。
その間も、エリセは、映画史を振り返り、映画に携わってきた。
いみじくも「観客としての経験のほうが、監督の経験よりも重要だ」と語るように、
一方で、映画批評を続けながら、
たえず映画への愛と希望の火をたやさずに過ごしていたようだ。
2007年にはポンピドゥー・センターで、
イランのアッバス・キアロスタミ監督との映像による
往復書簡『ビクトル・エリセ/アッバス・キアロスタミ、書簡』展が開催され、
その中で、『La Morte rouge』という作品で、自身の映画初体験を描いている。
歴史を単純化しないために、彼には立ち止まる時間が常に必須だったのだ。
記憶を物語に回収されないために、彼は未完を選ぶ。
それは彼がカメラを向けたアントニオ・ロペスの、
「流行に興味はない」という姿勢に呼応し、
商業的な成功よりも、思索の持続を優先したにすぎない。
不幸な出来事だと認識するか、それでも幸福な顕れと受け止めるべきか?
その強度は、スペインという裂け目の上に生きた世代の必然なのだろう。
精霊としての映画作家
こうして見てくると、エリセは革命的な作家ではないし、野心家でもない。
だが彼は、映画という芸術の時間を大事に守る存在だった。
リュミエールからチャップリン、フォードやホークス、
そしてレイ、溝口へと連なる光を、静かに受け継いできたのを受け止める。
怪物を見つめる少女と、スクリーンを見つめる老人。
そのあいだに流れた五十年は、一人の作家の生涯であると同時に、
映画そのものの歴史を兼ねているからだ。
この寡作な映画作家において、立ち止まることは敗北ではない。
むしろ熟考の証にほかならない。
エリセは確かなものと不確かなものの境界に身を置き、
沈黙と光のあいだで歩み続けた希有な作家だ。
彼の映画は声高ではないが、深く持続することで熟成してゆく、
裂け目から差し込む光のように。
そして、エリセの映画はその光に育まれ、今なお呼吸しつづけている。
その光は、いまも観客の内側で揺れているのだ。
Luís de Pablo – El Espíritu De La Colmena Soundtrack
当時、映画を見たあと、このサントラが欲しくて探し回ったが、結局手にすることはできず、もっと現代音楽寄りのCDを買った覚えがある。今、こうしてYOU TUBEに上がっているのみて、感慨もひとしおなのだ。ぼくが驚いたのは、デ・パブロ自身がスペイン前衛音楽の刷新者であったこと、つまり、本来の音楽性を鑑みるに、エリセの映像に寄り添ったカタチで、どこか素朴で童謡的な響きをもちながら、どこか不安を孕んだ和声でもって、明確に解決しない音の終わり方を選択していることだった。どういうカタチで音楽が進められていたのかはわからないが、『ミツバチのささやき』が単なるノスタルジー映画に堕ちないのは、デ・パブロの音楽が甘美さを拒否しているからだと思う。
ルイス・デ・パブロ(1930–2021)は、20世紀スペイン前衛音楽を代表する作曲家の一人であり、内戦後の文化的にも閉塞していたスペインにおいて、ヨーロッパの最新音楽――十二音技法、セリエリズム、電子音楽なを積極的に吸収し、スペインに紹介した先駆者だといえる。1950~60年代には、いわゆる「マドリード派」の中心人物として活動し、同時代のヨーロッパ前衛(ブーレーズ、シュトックハウゼンら)とも接点を持ち、保守的な文化環境の中で、実験と更新を推し進めた存在といえるだろうか。その意味では、日本で考えれば、武満徹的なポジションにいた作曲家だったといえるのかもしれない。
David Sylvian – The Beekeeper’s Apprentice
『ミツバチのささやき』の原題が、「El Espíritu De La Colmena(蜂の巣の精霊)」だっただけに、こちらはデヴィッド・シルヴィアンが1987年にリリースした3rdソロアルバム『Secrets Of The Beehive』には、蜂の巣繋がりで、なんらかの影響があるのかもしれない、と思っていた。事実関係は確認出来ていないから、そこは想像の域を出ない。ただ、生前から友好関係があった武満徹は『ミツバチのささやき』を見て絶賛しているし、デ・パブロのことにも言及していたから、当然、武満徹経由で知っていた可能性は十分にある。
シルヴィアンという人は、よっぽど蜂のモティーフがお気に入りなのか、さらに1997年には『Dead Bees On A Cake』というアルバムを出しているぐらいだ(ちなみに死んだミツバチはスピリチュアル的に「再生」、あるいは幸福の象徴という意味らしい)。そして、「The Beekeeper’s Apprentice(養蜂家の見習い)」という、ここにも蜜蜂関連の曲があるのだが、このミュージック・コンクレートは、1991年に、品川の寺田倉庫でのラッセル・ミルズとのインスタレーション『Ember Glance : The Permanence of Memory』のための音楽であり、のちに、これもロバート・フリップとのコラボで『Approaching Silence』というインスタレーションに使った楽曲と共に、ひとつにまとめられたCDに収録されている。とりわけ、『Ember Glance』に使用された楽曲は、武満徹のお気に入りだった。













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