宇野亞喜良 「AQUIRAX UNO」展のあとに

宇野亞喜良展 AQUIRAX UNO|東京オペラシティ アートギャラリー
宇野亞喜良展 AQUIRAX UNO|東京オペラシティ アートギャラリー

宇野亞喜良、いまだキラリ

宇野亞喜良は刺青師である。彼の手にかかると、あらゆる画布は1枚の皮膚に変えられてしまう。
『宇野亞喜良論のデッサン』 より寺山修司の言葉

東京オペラシティアートギャラリーにて
「宇野亞喜良展 AQUIRAX UNO」に行ってきた。
宇野亞喜良の大々的な展示には初めて足を運んだが、
広告はむろん、絵本や装丁の原画からポスター、彫刻に映像作品まで
幅広いジャンルとその個性に直に触れ
出品点数が900点越えというそのボリューム、
その独自の世界を十二分に堪能した。
「アートとデザインの境界線は、この先20年のうちになくなるんじゃないかという気がする」
とは、その道のパイオニア横尾先生の言葉。

僕個人もすでにそんな境界線をとっくにとっぱらって生きているつもりだが
あくまでも世間一般の話ということなら、素直に頷くしかない。
そんな横尾さん自身が、そういうスタンスを貫き、その道を究めてきた人とすれば
この宇野亜喜良という人もまた、そういうボーダーレス
かつ、表現の両性具有性を行く旺盛で妖しい表現力で
世界を切り開いてきたリスペクトクリエーターだ。

二人は、デザインという分野においても
言わずもがな、超一流の仕事と実績を持つ巨匠である。
ちなみに、版画家原田維夫と共に3人で
デザイン事務所「スタジオ・イルフイル」を
のちにも和田誠らと「東京イラストレーターズ・クラブ」を結成。
(イルフイルとは古い(フルイ)を逆にしたものに、illustrationのillをくっつけたもの)
「イラストレーション」の先駆けとしてデザイン界を牽引してきた重鎮の仕事は
今なおきらびやかで眩しい輝きに満ちている。
横尾、宇野この両巨匠共に、すでに90を超えてなお現役という、
まさに、そのために生まれてきたような人なのだと改めて思うところだ。

この宇野亜喜良にしたところで、
六歳のとき、すでに父親から絵の手ほどきを受け、
ポスターが入選した経歴だから、天賦の才能であることは間違いないが、
発想力、インスピレーションに加えて、表現そのものに偏見というか、
変なバイアスがかかっていないアーティストであり、
とはいえ、そのスタイルは明らかに、
独自性を打ち出した唯一無二な世界観を打ち出してきた。
ずばり、だれもが時代を超越した魅力に抗えないだろう。
ノスタルジーをくすぐる絵、なんて陳腐な言葉は似つかわしくない。
いわば、これぞAIキラー、アンチAIたるアーティストである。
どこまでも自由で、軽やかな鎌鼬のイラストレーションが繰り出す
必殺仕事人の業、それを纏った天性の人なのだ。

宇野亜喜良というと、どうしてもあの独特なエロティシズムを体現した
女性画をイメージするのではないだろうか?
そのイラストの魅了をいったいなんといえば良いのだろうか?
妖しさを前にクラクラすると同時に、
なぜ夢遊病者のように無意識に手を引かれ
後をついてゆくきたくなる少女たちが目の前にふらり現れるのだ。
その腕前は、瑞々しい少年のタッチであり、
同時に少年のような老練なタッチでもあるのだ。
数々の装丁で目にしてきた、
あの幽玄的ではかなさの極意にかたち取られた、
ポップで色気のあるイラスト表現は、ときにノスタルジックでありながらも
いっこうに色あせることなく、古びることがない魅力的なタッチである。
現代性はもちろん、セクシャリティを軽々と越えながら、
若い女性にも支持されているのもよくわかるロマンが横たわっている。
その特徴は、いかにも壊れそうなあの独自の線表現と言っていいだろう。
それこそは宇野亜喜良の真髄であるのだと思う。
まさに幽玄ポップとでも呼んでおこう。
それをデザインだとかアートだか、区別するのがばかばかしいほどに
洗練された表現として、ひとめで宇野亞喜良だとわかる個性に彩られているのを
このボリュームの展覧会で十二分に堪能することができた。

先日も「市谷の杜 本と活字館」で
「宇野亞喜良 万華鏡印刷花絮 Aquirax Uno Kaleidoscope -Behind the Scene-」を見た。
“俳句と少女”をテーマにした原画を題材が展示されていたが
そこでは、特殊印刷と様々な表現をめぐって実験を繰り返した
職人的ゲイジュツともいうべき印刷へのこだわりの深さを
改めて垣間見せられ、これはこれで実に新鮮で、
その世界の奥深さに改めて感動を覚えたものだ。
いくら時代が進化しようとも
AIが超えられない領域に達したこのアルチザンの妙味は
時代を越え、ジャンルを越え、性別さえ調節し
これからもますます輝きを失うことなどないだろう。
たとえ芸術に興味があろうとなかろうと、
こうした匠の思いを、ひとりでも多くの人に知ってもらいたい。

そこで、あらためて、デザイン、そして絵画とは?
というテーマに手を翳してみる。
しからば、自ずと答えが出てくる。
対象を愛でるこころ、すなわち時代の風に身を任せ
素直に見る目、逆に、ちょっとばかしいたずらっぽく反骨するウイット。
自らの本能や感覚に忠実に、そしてなにより熱意をもって真摯に向かい合う。
あとは時間が全てを解決してくれるだろう。

宇野亞喜良、いまだキラリ。

迷彩 -Camouflage- (Dai Ikkai Ringohan Taikai No Moyou ’05 / Live)

ぼくはあまり熱心な椎名林檎リスナー、というわけではないけれど、このアルバムに時代を感じるし、その才能も十分感じ取れる。椎名林檎を聴いていると、この時代に生きていると言う実感が素直に湧いてくる。それでいて、どこか記憶のひだにひっかかってくる強烈なノスタルジーを宿している。好きなアルバムはといわれると、2013年に発表されたコンピレーションアルバム『蜜月抄』だといっておく。僕好みのテーストが総合的に詰まっているのだが、直訳すれば、“甘い月日をつづった抄録”。単なるヒット曲集ではなく、“今の自分から見て価値があると思える曲”が選ばれており、アートブック的装丁もこれまた素晴らしい。まさに、彼女のクリエイティビティを味わうことができる。その思いをあと押してくれるのが、このジャケットの宇野亞喜良のイラストであるのだ。中身はロック、ジャズ、クラシック、エレクトロニカ、歌謡曲など多様。音楽的ジャンルというより「椎名林檎というジャンル」が際立つ構成になっている。シングル「茎(STEM)」のカップリング曲として収録され「迷彩」と言う曲は、ドラマチックなオーケストレーションで始まる。どこか、宇野亞喜良が手がけた寺山ワールドに現代性を纏わせ洗練させた響きがあって、心に響いてくる。自己の本質と社会的な仮面との間で揺れる、人間の心理を描いた、どこか文学的な香りがする曲だ。