マックス・ワルター・スワーンベリという画家

Max Walter Svanberg
Max Walter Svanberg 1912ー1994

美の女神は女に疲れた男よりも憑かれた画家を愛す

エロティシズムを、人間性の局限された一部分だとしか考えられない者、不当に蔑視し隠蔽して、これを道徳その他の人間精神の働きの下位に立たせようとする者には、ついにスワーンベリの魅惑の世界に参入することは不可能であろう。
澁澤龍彦「女の楽園」より

いわゆるエロスというものほど
その解釈の質において
上限下限の振り幅が大きいものはない気がしている。
その昔、スウェーデンという国は
いわゆるフリーセックスの国としてのイメージが氾濫し、
良くも悪くも一人歩きして
単純な思春期の男子の脳細胞をひどく刺激したものだった。

それがどこでどう間違ったか、
よく言われるところの、安っぽい“エロ”ではなく
また小難しく着飾った官能でもない、
まさに極上のエロティシズムというものが次第に脳髄を冒し始める。

エロティシズムって何?
その定義に時間を費やすのもいいが
例えばスワーンベリ(スワンベルグ )という画家の画業を
素直に眺め入るだけでいい。
それをうっとりとして受け入れるような資質のなかに
真のエロティシズムが懐胎されているのだから。

スウェーデン出身の画家、
マックス・ワルター・スワーンベリの存在を知ったのは、
澁澤龍彦経由であったことをまず念押ししておく必要がある。
何しろ、氏がもっとも愛する画家であり、
事あるごとにスワーンベリ讃歌を伝道してきた氏の洗礼によって
この画家の絵に親しんできたものとして
我が物顔でその名を叫ぶにはいささか抵抗あるというものだ。
なんなら恥ずかし目もなく、氏の請負だと言っていいぐらいである。
当然澁澤讃歌にもなってしまうわけだが
親しんでいくうちに、当然のごとく、
その幾何学模様のきらめくようなエロスの群像の前に
甘美で圧倒的なビーナスの祝福を受けて
盲目的偏愛を覚えるようになったのは言うまでもない。

それは女の身体の一部が、その妄想によって
鳥や魚、蝶などと一体化したり、
時に女性器そのものだったり
あるいは螺旋やハートの造形の中に埋もれてみたり、
アラベスクの形態をとったりと
自在な形状を謳歌しながら
我々の網膜を次々と陶酔で渡り歩いてゆく魔法の絵画である。
氏の言葉を借りるなら
「自由に退行することのできる精神の若々しさ」ゆえなのかもしれない。

この画家のインスピレーションには常に女というものが前提にあり、
女こそが全ての源泉であった。
スワーンベリという人は愛妻家で、
妻であるグンニこそは全ての女の要素を併せ持ったファムファタルとして
この画家の生涯に寄り添ってきた女神であった。
マックス・エルンストとは全く違うベクトルを持つ
『Gに捧げる奇妙な星のオマージュ、十相』など
これまた蠱惑的なコラージュ作品では
しばしそのオマージュのようなものが妻に捧げられている。

それにしても、スワーンベリは気持ちがいいほどに
徹頭徹尾、男不在の神聖なるキャンバスを厳格に構成し、
ひたすら女性賛美の芸術を奏でてきた。
かつて「女に生まれたということが、女の幸福の第一歩なのである」
と書いた澁澤氏のアンテナに
かくも深く浸透してくるのも納得の美意識が横たわっている。
その辺りはスワーンベリ本人の言葉で語ってもらおう。

私の絵画は女性への讃歌、ヴィジョンと現実との、また痙攣する美と羞らいに満ちた誘惑との奇異な混淆である女性への讃歌である。おんなは紅いろの部屋に住む孤独なもの、その肌は蝶の群れの奇異な色とりどりの衣装のしたに、またさまざまな出来事、匂い、朝の薔薇の指たち、澄んだ太陽たち、黄昏時の青い恋人たち、大きな眼をした夜の魚たち、といったもののしたに秘めているのだ。
「女に憑かれて」シュルレアリスム国際展カタログより
瀧口修造訳

こうした女性讃歌による詩的戯れは
何よりもシュルレアリスムの権化であった
アンドレ・ブルトンの目にいち早くとまるや
その慧眼を狂喜させた。
いわばその筋のお墨付きの画家であることに
後押しされているといっていい。

そうした賛美にさらに付け加えるなら
スワーンベリがランボーの詩『イリュミナシオン』の挿絵を描いたことを
一つの事件のようにあげておこう。
これは墨と水彩(赤、ピンク、青)と金泥を用いた
石版画による特殊印刷の豪華な詩集で
ブルトンに「私が今までに見たいちばん美しい本」
とまで言わしめたほど評価の高いものだ。
あらゆる言葉が詩と呼ばれうるものになるのと同様に、
どんな絵であっても挿絵になるとはいえ、
あのランボーの詩的宇宙に匹敵しうる絵など
そうそう出会えるものだとは思わない。
ここでまた、氏に倣いてそのランボーの詩を引用しておこう。

ビーイング・ビューティアス

雪を前にして、丈の高い美の一存在。死人の喘ぎと鈍い音楽の輪につれて、この尊い肉体は、亡霊のように、拡がり、慄えて、昇って行く。黒く、深紅の傷口は、見事な肉と肉との間に顕れる。

夜明け

俺は、樅の林を透かして髪を振り乱すブロンド色の朧に笑いかけ、銀色の山の頂に女神の姿を認めた。
そこで、俺は面帖(かずき)を一枚一枚と剥いでいった。往来では両手を振り、野原をすぎる時は、雄鶏に知らせてやった。街へ出ると、彼女は、鐘塔や円屋根の間に逃げ込んだ。俺は、大理石の河岸の上を、乞食のように息せき切って、あとを追った。

大売出し

売物。凡そあらゆる種族の、あらゆる世界の、性別の、血統の、その埒外にある価も量られぬ肉体。歩むに従って、迸り出る様々な富。無統制のダイヤモンドの投売り。

アルチュール・ランボー『イリュミナシオン』より
翻訳:鈴木信太郎・小林秀雄

こうしたランボーの硬質で難解なる詩的宇宙と
スワーンベリの絵画とが不思議なほどのハーモニーを奏でるのだから、
詩的婚姻の結晶はかくも恐ろしい。
それは紛れもなく、ブルトンが追い求めた
痙攣的な美であり、“自由な結合”である。

最後にちょっとくどくなってしまうけれども、
そんなブルトンの、女という美に対する暗喩が
ひたすら続く個人的にもお気に入りな詩を引用しておこう。
スワーンベリの絵がランボーの詩にうまく結合したように、
このイマージュこそが、スワーンベリのエロティシズムにも直結しうる
ポエジーそのものではないだろうか?

自由な結合 アンドレ・ブルトン

わたしの女は 火の髪の毛 樹の髪の毛
そして 熱の閃きの思想
わたしの女は 砂時計の体軀
虎の歯のあいだの川獺の体軀
わたしの女は 花結びの口 六等星の花束の口
白い地面の上に白い二十日鼠の刻印した歯
琥珀の舌 磨いたガラスの舌
わたしの女は 短刀で刺された聖体パンの舌
眼をあけたり閉じたりする人形の舌
途方もない石の舌
わたしの女は 子供の書く字劃の睫毛
燕の巣の縁の眉
わたしの女は 温室の屋根のストレートの顳顬
そして 窓ガラスの湯気の顳顬
わたしの女は シャンパン酒の肩
そして 氷の下の海豚の泉の肩
わたしの女は マッチの軸木の手首
わたしの女は 偶然の指 ハートの一の指
刈られた乾草の指
わたしの女は 貂の腋の下 橅の実の腋の下
聖ヨハネ祭の夜の腋の下
水蝋の樹の腋の下 魚の巣の腋の下
海の泡の腕 水門の腕
そして 小麦の交配の腕 製粉機の腕
わたしの女は 紡錘の脚
時計仕掛の脚 絶望の脚
わたしの女は 接骨木の髄の腓腸
わたしの女は 頭文字の足
鍵の束の足 酒を飲む槙皮詰め職工の足
わたしの女は 精白しない大麦の首
わたしの女は 黄金の谷の胸
奔流の河床におけるランデ・ヴーの胸
そして 夜の乳房
わたしの女は 海の土竜塚の乳房
わたしの女は ルビーの坩堝の乳房
露けき薔薇のスペクトルの乳房
わたしの女は ひろがる光の扇の腹
巨大な爪の腹
わたしの女は 垂直に逃げる鳥の背中
水銀の背中
光線の背中
ころがる石の襟首 湿った白墨の襟首
飲んだばかりのコップの落下の襟首
わたしの女は 小舟の腰
シャンデリヤの腰 矢羽根の腰
そして 白孔雀の羽根の軸の腰
動じない天秤の腰
わたしの女は 砂時計の臀 石綿の臀
わたしの女は 白鳥の背の臀
わたしの女は 春の臀
そして、グラディオラスの性器
わたしの女は 金鉱床の性器 鴨嘴獣の性器
藻類の性器 古いボンボンの性器
わたしの女は 鏡の性器
わたしの女は 涙がいっぱいの眼
紫色の甲冑の眼 磁石の針の眼
私の女は 大草原の眼
わたしの女は 牢獄で飲むための水の眼
わたしの女は つねに斧の下にある樹の眼
水準器の眼 空気と土と火の 水準器の眼
澁澤龍彦訳

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